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宮森城(福島県二本松市) [古城めぐり(福島)]

DSC05147.JPG←主郭南側の堀切
 宮森城は陸奥大内氏の支城の一つであり、独眼龍伊達政宗の痛恨事、畠山義継による伊達輝宗拉致事件が起きた城でもある。

 元々は下野の宇都宮氏10代氏綱の次男氏広が奥州探題に任ぜられて、1396年に築城したことに始まる。当初は四本松城と称した。奥州伊達氏中興の祖といわれる儀山公政宗(独眼龍伊達政宗とは同名異人)が鎌倉公方足利満兼に対して反乱を起こした際(伊達政宗の乱)、宇都宮氏広は伊達方に組したため、並立する奥州探題の斯波詮持、石橋棟義等によつて亡ばされた(1400年)。氏広討伐の功によつて石橋氏は塩松荘の領主となつた。

 石橋氏は足利一門の出で、奥州の押さえとして派遣された一家であった。石橋氏の四天王の筆頭大河内氏が1471年にこの城に入って城を修築し、宮森城と名を改めた。主家石橋氏は下克上の気風の中で没落し、四天王の一つ大内氏が実権を握って、1569年大内備前は父能登および石川弾正・寺坂信濃らと共謀して大河内備中を攻め滅ぼした。宮森城の近くには、この時にまつわる稚児の墓、腹切り石、かっか石などの史跡が残る。こうして大内氏は塩松領の領主となったが、戦国末期になると独眼龍伊達政宗の激しい攻勢にさらされ、小手森城をなで斬りにされて葦名氏を頼って落ち延びた。政宗は自身は大内氏の本城であった小浜城に、父輝宗は宮森城に入り、ここを拠点に更に二本松畠山氏を降した。若い政宗は明らかに性酷薄であり、畠山氏はわずか五ヶ村の保有を許されるだけで、事実上の滅亡状態に瀕した。窮した畠山義継は宮森城の輝宗を訪れて取り成しを頼むが断られ、なんと前代未聞の輝宗拉致を敢行し、輝宗は結局粟の須で悲壮な最期を遂げることとなった。

 さてそんな血生臭い戦国の歴史を地で行く宮森城であるが、城は思ったより小さい。なだらかな丘陵上に築かれた城で、最上部に主郭を、その東西に何段かの曲輪を持っている。また堀切を挟んで主郭の南側にも曲輪があり、その東西にも何段かの曲輪があるようだが、夏場は薮がひどくて全貌を掴むことはできなかった。しかし大きな堀などはないらしく、小浜川を天然の堀とはしているものの要害性はあまり感じられなかった。居館としての側面を前面に押し出した城だったのだろう。なお城跡の麓には御膳清水と呼ばれる輝宗も使ったといわれる歴代城主の御用水跡も残っている。
主郭の土塁跡→DSC05141.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://portal.cyberjapan.jp/site/mapuse4/?lat=37.547499&lon=140.505833&z=16&did=std&crs=1
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