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尊氏ゆかりの寺 能仁寺 [神社・仏閣めぐり]

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 真岡市の東のはずれに能仁寺という寺がある。足利尊氏が南北朝期に開いた寺と伝えられており、本堂には尊氏の木造も安置されているという。なぜ尊氏が真岡の地にこの寺を開いたのか、その理由はわからない。ただ、ここから更に東に500mほど行った所にある観音堂は、尊氏が15歳のときに夢の中で観音様のお告げがあって、そのためこの地に観音様を安置し、その守護のためという伝承がある。しかし若き日の尊氏(このころは高氏)は、武家の名門清和源氏の嫡流足利氏の嫡男で、普段は鎌倉の屋敷にいたと言われており、しかも足利氏の発祥の地の足利の庄からは遠く離れているので、何ゆえこの地に来たのか、不思議な感じがする。ここに足利氏の飛び領でもあったのであろうか。本当に若き日の尊氏がこの地に足を運んだことがあるとしたら、同じ地に立つと感慨深いものがある。
 観音堂や寺を建てたのが暦応年間、康永年間というから、南北朝の抗争は続いていたものの室町幕府の幕政が安定期に入り、尊氏・直義の二頭体制が表面上はうまくいっていた頃の建立であり、全くいわれのない話ではないのかもしれない。

以下は現地解説板の記載。

大雄山能仁寺(臨済宗妙心寺派)
「本寺は南北朝期、足利尊氏を開基とし、仏国国師(那須雲巌寺の開祖)の高弟、不識妙宥禅師の開山で康永2年(1343年)に建立された。本尊は釈迦如来(県指定文化財)である。
 尊氏公から永一千貫の地を寄付されて、鎌倉円覚寺派十刹の一に列し下野国では、那須の雲巌寺と並んで最高位の寺院となっていた。応永26年(1419年)には、称光天皇から蒙古使に命じて書かせたと伝えられる「関東名藍」の扁額を賜った。戦国時代末期に二度の火災、その後江戸時代に山崩れ等の災害にあったが、仏殿(釈迦堂)と扁額は難を免れたといわれる。
 仏殿には、足利氏の家紋である「丸に二引両」が附され、尊氏の木造やお位牌が安置される尊氏ゆかりの由緒ある寺院である。
 なお、尊氏は暦応元年(1338年)本寺から約五百メートル東の境沢の地に観音堂を建立し、その守護として本寺院を建立したといわれている。」

観音堂
「本堂は、聖観世音菩薩と馬頭観世音菩薩を本尊とし、1338年(北朝 暦応元年)足利尊氏の創建という。
 この境沢の地に建立されたのは、次のようないわれがあります。
 1320年(元応二年)7月9日の夜、尊氏が15歳のとき、夢枕に異形の僧侶が立ち「自分は根本境沢の土中に埋没している観音である。武運長久を願い大将軍を望むならば、来て我が体を拝せよ。」というのである。掘り起こしてみると、聖観音と馬頭観音とが白蛇・黒蛇に護られていた。尊氏深く感じ、これを尊信し、ここに安置されたといわれている。
 さらに、本堂の守護として5年後の1343年(北朝 康永二年)大雄山能仁寺(根本愛宕下)を建立したといわれている。」
観音堂→DSC04446.JPG

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