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川越城〔附、河越夜戦古戦場〕(埼玉県川越市) [古城めぐり(埼玉)]

IMG_9159.JPG←富士見櫓跡
(2006年2月訪城)
 当時のことであるが、友達の結婚式が川越であったので、そのついでに川越城巡りをしてみた。ただあいにくの天気だったので、礼服着たままであまり出歩くわけにも行かなかったが、とりあえず城の遺構と呼べる部分については、一通り行ってみた。

 川越城は、中世には河越城と記載され、関東戦国史に名高い城である。名将太田道灌が築いた城というだけでなく、関東戦国の新旧勢力の劇的な交替劇を演出した城でもある。すなわち、関東管領上杉氏を駆逐して、関東南半の覇権を確立しつつあった小田原北条氏に対して、山内上杉氏と扇谷上杉氏は旧怨を忘れて連合し、更に両上杉氏とは仇敵の間柄である古河公方足利晴氏までが加わり、関東諸家の兵をかき集めて大連合軍を編成して逆襲に転じた。そして、北条氏に奪われた武州の重要拠点、河越城を大軍勢で包囲したのである。しかし総勢8万とも言われる大連合軍を前に、北条綱成の籠もる河越城は寡兵を物ともせず頑として落ちなかった。後に勇将の名を欲しいままにする綱成は、期して待つものがあったのであろう。そして時の北条家当主は第3代、若き北条氏康であった。

 駿河の今川義元とも緊迫した状況にあった中、二正面作戦を余儀なくされたため、氏康が河越戦に動員できる軍勢は多くはなかった。とりあえず引っさげていけるだけの兵を揃えて、氏康は急遽河越城の救援に向かった。その数8000と伝えられる。しかしまともに戦って勝てる数ではない。そこで氏康は、なんと一世一代の大芝居を打った。相手にわざと弱腰の態度を見せ、何とか和平に持ち込まんとするそぶりを見せて、敵の油断を誘ったのである。そして運命の日、1546年4月20日の夜半、氏康は一斉に軍を動かし、夜間奇襲攻撃を仕掛けた。氏康の軍と呼応して城内の綱成の軍勢も打って出て、敵中を駆け抜けた。この、全く予期せぬ猛攻に上杉方の大軍は周章狼狽して大混乱に陥った。もともと寄せ集めの軍勢である。一旦指揮系統が分断されて陣が崩れ始めてしまえば、もはや止める術はないのである。8万ともいわれる軍勢は北条軍に攻め立てられ、あっけなく壊走した。この乱戦の中、扇谷上杉家の当主朝定は戦死して御家断絶、関東管領である山内上杉憲政もほうほうの態で敗走し、わずかに本拠の上野平井城に逃れるを得ただけという有様であった。

 この、日本三大夜戦に数えられる「河越夜戦」の劇的大勝利によって、小田原北条氏の関東における覇権は確立。関東の諸豪族はこぞって北条氏の麾下に入ることとなった。こののち本拠の平井城も北条軍の攻めるところとなり、上杉憲政は越後の守護代、長尾景虎を頼って落ち延びた。景虎は憲政より関東管領職と上杉氏の名跡を受け継いで上杉政虎となる。このことが関東の野を、北条氏康と上杉謙信という二大勢力の抗争の場と化していくことになるのである。

 そんな歴史の大きな転換点の舞台となった城であるが、現在では完全に市街化の中に埋没し、残っている遺構はわずかに過ぎない。本丸南西隅の富士見櫓跡、本丸御殿、天神曲輪(三芳野神社)の土塁ぐらいのものである。その他は、曲輪の輪郭を追うことすら難しい有様である。御殿の建物が残っているのは、全国的にも少ない貴重なものではあるが、せめて本丸の曲輪跡だけでも残してもらいたかった。
本丸御殿→IMG_9180.JPG
IMG_9202.JPG←三芳野神社脇に残る土塁

 なお、河越夜戦の中でも最大の激戦地となったと言われる現在の東明寺の境内に、古戦場の石碑が建立されている。この地が、戦国関東の歴史を大きく変えることになったのである。
IMG_9213.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.37.5N35.55.10.4&ZM=9
     http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.16.9N35.55.32.7&ZM=9 (河越夜戦古戦場)
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