So-net無料ブログ作成

八木岡城(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]


 八木岡城は、南北朝の騒乱にも出てくる歴戦の城である。宇都宮氏麾下の勇猛な軍事集団として太平記にも名高い紀清両党の一翼、芳賀氏の一族八木岡氏によって鎌倉時代に築かれた。八木岡氏の事績としては、太平記 巻15「多々良浜合戦の事」に、足利直義の軍勢の中で八木岡五郎左衛門の活躍が記されている。
 一方、この城が歴史の表舞台に出てくるのは2度ある。1度目は、南北朝動乱期に南朝の地方勢力建て直しのため、東国に下向した北畠親房・春日顕国が北関東で軍事行動を展開し始めたときのこと。春日顕国(顕時ともいう)は積極的に下野方面に軍を展開し、北朝方に付いていた芳賀氏の拠点であった真岡城、八木岡城を落とし、更に前進して宇都宮城の目と鼻の先の重要な軍事拠点、飛山城をも落とした。幕府はこの事態に対応するため、将軍足利尊氏の執事高師直の一族、高師冬を鎌倉府執事として下向させた。師冬は有能な軍事指揮官で、次第に関東南朝の中心、常陸の小田城などを攻め落とし、最終的に関東から南朝勢力を一掃することに成功した。
 次に八木岡城が出てくるのは、久下田城の水谷正村(蟠龍斎)との攻防の時のこと。このときも最終的には正村によって攻め落とされている。

 さて、そんな八木岡城であるが、現在残る城の遺構を見る限り、それほど堅牢な城には見えない。五行川右岸の地にあるほんとに小さな小山を利用して築かれているが、残っているのは二本の大きな土塁とその間の空堀、それと周囲の曲輪跡らしき微高地だけである。周りはすべて田んぼになっているので、開墾の際にもしかしたら遺構の一部が削られているのかもしれないが、今からでは偲べるものはない。東側に土塁が崩落したような跡があるので、もしかしたらこちらにもう少し何かあったのかもしれない。しかし川が近くに迫っているので、大したものではなかったろう。
 城跡は真岡市が数年前に土地を取得して、末永く市の史跡として保存していくようである。なお、城の北100mほどのところを北関東道が建設中であるが、これもわざわざ八木岡城を避けたようである。このような歴史のある城をきちんと残してもらえるのはありがたいことだ。
二本の土塁の間の空堀→
     横矢も掛かっている

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.416992/139.989939/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

【2009年1月追記】
 国土変遷アーカイブを確認したところ、城のすぐ東を流れる五行川はかなり流れが変えられていることがわかった。現在はかなり直線的な流れで城のすぐ東を流れているが、かつてはかなり蛇行する流れで現在よりもう少し離れたところを流れていたのである。五行川の流れを改修するときに、東側の城址遺構が破壊された可能性がある。また南側の部分も改変されたようである。何か中途半端な曲輪の形状と思ったが、もともとの城の縄張りはもう少し違っていたようだ。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

メッセージを送る