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新庄城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2652.JPG←尾根鞍部の堀切
 新庄城は、丹波小守護代として船井郡を領した井上氏の居城である。歴代の城主は、文明年間(1469~86年)以降、井上雅楽助・井上孫五郎・井上又六と続いた様で、丹波守護細川政元の奉行人波多野秀久の奉書や守護代上原元秀の遵行状を井上氏に発出している。また『丹波志』によれば、戦国後期には井上氏は没落していたが、井上治部少輔は明智光秀に仕えて丹波平定の先鋒となり、古邑を回復したと言う。

 新庄城は、標高230m、比高110mの城山に築かれている。城山は南北2峰あり、北の峰に本城、南の峰に出城を置いている。現在はほとんど人が入らない山らしく、城内は全体に藪が多い。また東の谷戸からの登城路があるが、倒木が多く一部では道が消失しており、結局斜面直登になる可能性が高い。私はこの道を知らなかったため、本城南東の尾根を直登した。
 本城は、主郭の周囲に腰曲輪を廻らし、北と南に数段の段曲輪、東尾根に2段の舌状曲輪を配置している。この舌状曲輪(上段)の付け根は一段低い鞍部の曲輪となっており、南側に虎口が付いていて、前述の登城路と繋がっている。この虎口を防衛するように、舌状曲輪後部に土塁・物見台が築かれている。下段の舌状曲輪の先端には土塁が築かれ、その側方に虎口が築かれている。舌状曲輪から下方にやや離れた南東尾根にも、明確に削平された曲輪が築かれている。一方、前述の鞍部の曲輪から主郭の北側に向かって明確な城道が残っている。主郭は三角形状の曲輪で角部に土塁を築いている。主郭内は藪が少なく、20年以上前の小学生が作った城址解説板が残っている。主郭から南尾根を辿ると、段曲輪の先の鞍部に二重堀切が穿たれている。内堀の外側には土塁も築かれている。これらによって出城との分断を図っている。
 南の出城も基本的な構造は本城と同じで、頂部の主郭の周りに腰曲輪を廻らし、更に北尾根に段曲輪を築いている。こちらも主郭へ至る城道が、段曲輪側方に明確に残っている。『図解 近畿の城郭Ⅰ』によれば、この出城の周囲の斜面には畝状竪堀が穿たれているとされているが、かなり小さい竪堀のため、遺構かどうかはかなり微妙な感じである。
 以上が新庄城の遺構で、頑張って藪漕ぎをした割にはあまりパッとしない城だったのは残念である。
舌状曲輪後部の物見台→IMG_2589.JPG
IMG_2677.JPG←出城の畝状竪堀?

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.103646/135.518911/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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多くの日本人よ、その選択で良いのか? [雑感]

今週末は衆議院選。
疑惑噴出で死に体に陥ったアベ政権が、ドサクサ紛れに打ち出した私利私欲丸出しの選挙である。
報道では、この総選挙で掛かる費用は数百億円に上るという。
自身の権力延命のために、ただでさえ赤字で逼迫している国家財政を、
更に悪化させて臆面もない。

マスコミの事前調査では、与党自民党が大勝するようだが、
本当にその選択で良いのか?

アベが大勝すれば、必然的にアベ自民の強権的政治を是認することになる。
そうなると、今後の日本はどういう社会になるか。

解釈改憲によって集団的自衛権を認めた事実が先例となって、
近代立憲主義は日本では有名無実となり、憲法の解釈変更による国家権力の強化が常態化する。

近いうちに憲法9条は改正され、それを皮切りに数年後には集団的自衛権を明記し、
国家の権限を強力にして国民の権利を大幅に制限する、自民草案に近い憲法改正に至る。
(9条に自衛隊を明記するだけというのは、
 いわゆる「お試し改憲」によって憲法改正の先例を作るのが目的であって、
 次に来るべき憲法大改正への布石に過ぎない)

そして、トランプのアメリカと一緒になって世界に進軍する、軍国国家となるだろう。
「集団的自衛権」というのは、国防に資するという聞こえはいいが、その目的と実態は、
いかにして自衛隊をアメリカ軍の一部隊として、両者を一体運用できるようにするか、に尽きる。
要するに、軍事的にアメリカに盲従するための法律である。
北朝鮮の脅威を煽っているのも、その布石である。

そもそも政権が、国民の支持率を上げ、自身の権力を強化するために、
国外に仮想敵を作って国民を煽るのは、世の古今の東西を問わず、常套手段である。
それは歴史が証明している。
近代の隣国では、韓国の歴代の政権も、末期になると反日を煽って延命を図ってきたし、
中国も国内の不満をそらすために、東や南の海域へ不当な進出を続けている。

軍国的になった日本は、政権が「報道の中立性を確保する」と言う名目で、
マスコミに介入し、情報を統制して政府に都合の良い報道で国民を欺き、国の進む方向を誤らせる。
(読売と産経はすでにアベ自民の走狗と化している。)

有力政治家と癒着した人間は、制度の恣意的運用によって、臆面もなく暴利を貪るようになる。
その事実は、情報統制されて国民に知らされることはない。

今は株高なので問題が表面化していないが、
株高と経済成長が右肩上がりで続くわけがないのだから、
一旦破綻して恐慌に陥ると、巨額の国家資本を投下して株高を支えてきた日銀・GPIFによって、
国家財政は今以上に逼迫し、年金も社会保障も大幅にカットされ、国民の生活は窮乏を極める。
(昭和恐慌に近い状態に陥るのではないか?)

そんな「バラ色」の予想図しか、私には見えてこない。

今、目先の株高や求人増加、北朝鮮の脅威に幻惑されて、多くの国民が判断を誤ると、
(特に現状維持、保守傾向の強い若い世代の人)
それは国家大計の、百年の煩いとなろう。

その実例は、ナチスドイツに見ることができる。
多くのドイツ国民が、目先の経済政策に成功したヒトラーを熱狂的に支持していた歴史的事実、
そしてそれが後世に及ぼした災禍を、我々は忘れてはならない。
(ナチスも全権委任法でワイマール憲法を骨抜きにした。
 ナチス好きの麻生太郎が2013年に「ナチスの手口に学べ」と言ったが、
 その通りに日本の政治が動いているのは、気味が悪い。)
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藁無城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2492.JPG←二ノ郭の崩落した石積み
 藁無城は、丹波守護代として勢威を振るった八木城主内藤氏の一族、船岡内藤氏の居城である。詳細な事績には不明点が多いが、『広瀬家文書』によれば、1559年夏、藁無城主内藤季有が杉崎大和守と共に黒井城主赤井氏を味方として桑田郡小川村で八木城主内藤宗勝と戦ったが、赤井氏が宗勝方に寝返ったため季有は敗れ、波々伯部光好が仲介して季有と大和守は宗勝と和睦したと伝えられる。1564年春には、小山の郷士某が藁無城主内藤安芸守季行が謀反を企てていると八木城の内藤和泉守に告げたため、城主宗勝は和泉守に兵350余名を従わせ藁無城を攻めたと言う。個人的な推測であるが、船岡内藤氏がこれほど内藤宗家に反抗的であったのは、おそらく宗勝が内藤氏とは縁もゆかりもない松永久秀の実弟で、宗家を乗っ取られたためであろう。

 藁無城は、林松寺背後の標高270m、比高130mの山上に築かれている。登山道は消失していおり、城に行くには斜面を直登するしかない。丹波守護代の一族にしては小規模かつ技巧性のない城で、最高所に小さな主郭、その南・東・北の三方を囲む二ノ郭、その北に土塁状の長い土橋で繋がった三ノ郭、その背後に2段に分かれた四ノ郭を配置した、基本的には連郭式の縄張りとなっている。二ノ郭南から東にかけては腰曲輪が廻らされ、長土橋の両側にも腰曲輪が広がっている。三ノ郭西側には大きな穴が開いているが、おそらく採石跡であろう。二ノ郭切岸には部分的に石積みらしいものが見られるが、自然石が多く、ほとんど崩落している。採石の山となっていたせいで、石垣の石が持ち出されてしまった可能性もある。いずれの曲輪もわずかな段差だけで区画されており、堀切は四ノ郭後部の北尾根を分断する部分に、比較的小規模なものが穿たれているに過ぎない。正直言って、技巧性に乏しい並の山城の類で、苦労して直登するほどの価値はない様に感じた。
 尚、山麓の林松寺は、平時の城主居館があった場所との言い伝えがあり、ここには立派な石垣がある。
四ノ郭背後の堀切→IMG_2524.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.136853/135.481982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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塩貝城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2463.JPG←前面堀切から落ちる二重竪堀
 塩貝城は、大戸城とも呼ばれ、この地の国人領主塩貝将監の居城である。塩貝氏については、晴政・晴道父子の名が知られ、いずれも将監を称した。晴道は、八上城主波多野秀治に忠節を尽くし、1579年に明智光秀に塩貝城を攻め落とされたと言う。

 塩貝城は、標高310m、比高120mの山上に築かれている。北西麓から登り道が整備されており、所々に表示があるのでわかりやすい。標高280mの尾根まで辿り着くと、出曲輪である鍛冶屋敷と、本城との分岐点に至る。鍛冶屋敷は低土塁で囲まれた単郭の出城で、北側に張り出しを設け、東側に形の整った枡形虎口を築いている。鍛冶屋敷と本城の間の尾根中間部には、土橋の架かった堀切が1本穿たれている。本城は、前面に2本の堀切を段状に築いており、内側の堀切は側方に竪堀が長く落ち、特に西側では二重竪堀に分岐して落としている。東側は更に数本の竪堀を落として畝状竪堀としている。従って、本城前面の防御線はかなり重厚である。本城は頂部の主郭とその手前の二ノ郭を主体とし、更に西側に数段の腰曲輪を築いている。最下段の腰曲輪は、北端に縦土塁を築き、そこから前述の二重竪堀に対して横矢を掛けている。またこの腰曲輪の南端は竪堀で遮断している。二ノ郭は東側斜面に畝状竪堀が穿たれているため、塁線も竪堀で削られ、ウネウネしている。主郭は綺麗に削平されているが土塁は築かれていない。背後には堀切が穿たれているが、この堀切は整形が甘く、前面の普請に注力した結果、力尽きた様な感じである。南東の尾根をやや降ったところにも堀切が穿たれて、城域が終わっている。いかにも地方の小土豪の城という感じの小城砦であるが、前面防御に集中した一点豪華主義の城である。
鍛冶屋敷の枡形虎口→IMG_2375.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.187883/135.473614/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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中村城(京都府南丹市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2247.JPG←放射状の竪堀
 中村城は、この地の国人領主で島城主川勝氏の支城である。詳細は不明であるが、川勝兵衛大輔氏隆が城主だったと伝えられている。

 中村城は、島城と谷戸を挟んでそびえる標高290m、比高100mの山上に築かれている。城へは、西麓の民家裏の小道を進み、東へ谷とへ登っていくと歓楽寺跡の平場があり、そこから南の斜面を直登すれば到達できる。主郭を中心に、北・南・西の三方の尾根に曲輪を配している。『図解 近畿の城郭Ⅲ』の縄張図の呼称に従うと、北尾根にⅢ郭・Ⅳ郭、南尾根にⅡ郭、西尾根にⅤ郭を置いている。いずれの曲輪も外周の切岸がしっかり構築されていて、下の斜面から見ると、塁線がそびえている。Ⅳ郭は上下Ⅱ段に分かれており、下段は中央が窪地となった緩やかな斜度を持った曲輪である。北から東の斜面には放射状に竪堀を落としている。4郭上段は削平が綺麗にされているが、その上のⅢ郭とされる部分は自然地形に近い斜面である。主郭へは前面の切岸の左方に進むと虎口がある。主郭内は綺麗に削平されているが、塚状のものと井戸跡と堀状溝が残っている。井戸跡と溝には現在でも水が溜まっている。溝は井戸と繋がっているので、水路として使われたのかもしれない。主郭と南のⅡ郭とはわずかな段差で区切られているだけだが、東辺近くは段差のない城道となっていて、側方に低土塁を伴っている。主郭の西には『近畿の城郭』に呼称が付いていない西郭があり、そこから尾根を降るとⅤ郭がある。Ⅴ郭の西の斜面にも竪堀が何本か穿たれているが、Ⅳ郭周囲よりも不鮮明である。あまり技巧性はないが、少々風変わりな縄張りの城である。
主郭の井戸・溝跡→IMG_2288.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.278742/135.558586/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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日置谷城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_2172.JPG←圧巻の畝状竪堀
 日置谷(へきたに)城は、歴史不詳の城である。上林川を挟んで南側には上林氏の居城であった上林城が向かい合っているが、日置谷城との関係は不明である。日置谷城はその技巧的な縄張りから織豊系の陣城と推測されており、『図解 近畿の城郭Ⅰ』では明智光秀に協力した上林氏が、織豊勢力の影響を受けながら構築した城との見解を載せている。

 日置谷城は、上林川北岸の比高100m程の山上に築かれている。東麓に上林禅寺があり、その背後から尾根筋に登り、尾根を西にたどると城に至る。大きく2つの城域に分かれ、標高220mの中間のピーク上に出城があり、西の標高240mの大きなピークが主城となっている。出城は単純な構造で、削平の甘い頂部の平場と北端の土橋の架かった堀切から成っている。
 圧巻なのが主城である。山頂に主郭を置き、西側に土塁の囲郭、南側に3段の曲輪群(ここでは上段郭・中段郭・下段郭と称する)を築いている。南の3段曲輪の東側には横堀が穿たれ、横矢掛かりのクランクを設け、上部で直角に曲がって東斜面へ竪堀となって落ちている。横堀の南端も竪堀となって落ちている。下段郭の付け根に虎口があり、おそらくこの横堀上に木橋を渡していたのだろう。横矢はこの木橋に対する防御と推測される。中段郭・下段郭はいずれも両翼を土塁で防御し、東側は前述の横堀で防御し、西側には畝状竪堀を設けている。ここの畝状竪堀は珍しい形で、一番下のものは下段郭側方の横堀を兼ね、上部でV字に分岐している。またその横の竪堀は逆U字形で初めて見る形状である。下段郭の下部中央には坂虎口、南西端には2本の竪堀で側方防御した桝形虎口が築かれている。上段郭は主郭の南面から東面に広がり、横堀沿いに土塁を設け、横堀直角部に土橋を架けている。東斜面には横堀から落ちる竪堀と連携させて計4本の畝状竪堀を穿っている。主郭はL字型の城内最大の曲輪で、全周を土塁で囲まれ、南東に隅櫓台を設け、その側方に上段郭から登る坂虎口を築いている。北尾根には2本の堀切を穿って分断している。主郭西斜面は内側に湾曲しているが、ここに合計11本もの畝状竪堀が構築されている。湾曲した斜面におびただしい数の竪堀が連なって落ちている様は壮観である。主郭の西側には西の囲郭と連携した二重桝形虎口が構築され、この虎口側方も畝状竪堀で防御している。この他にも2ヶ所の虎口っぽい窪みが主郭に見られ、複数の虎口を分散配置している様である。以上の様に、日置谷城は丹波地域の山城の中では、虎口構造に厳重な枡形を用い、横矢掛かりの横堀など相当に発達した縄張りを有しており、各地に割拠した小土豪の城とは明らかに一線を画している。小さい城ではあるが、丹波では最高峰の城の一つであろう。
主郭の隅櫓台と東虎口→IMG_2123.JPG
IMG_2185.JPG←畝状竪堀
主郭西側の二重桝形虎口→IMG_2196.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.366717/135.405958/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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梨子ヶ岡城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1939.JPG←東斜面の畝状竪堀
 梨子ヶ岡城は、歴史不詳の城である。城主は坂田氏と伝えられるがその事績は不明で、周辺にはこの地域の国人領主である渡辺氏の沼ヶ谷城・赤道城があることから、梨子ヶ岡城も渡辺氏の勢力下にあった城であった可能性がある。

 梨子ヶ岡城は、県道1号線から南にやや奥まった上林川沿いの比高80m程の山稜先端のピーク上に築かれている。北麓の玉泉寺裏から適当な斜面を直登すると城に到達する。多重堀切と畝状竪堀を多用した城で、その技巧的縄張りには眼を見張らされる。山頂に主郭を置き、主郭の西から北にかけて一段低く腰曲輪を廻らし、前面(北面)に狭い二ノ郭を置いている。二ノ郭の前面には中規模の堀切が穿たれ、その前面は物見台となっている。主郭の背後の南尾根には三重堀切が穿たれて、背後を分断している。主郭の東面と西面には畝状竪堀が穿たれており、西側のものは小さくわかりにくいが、東側のものはしっかりと穿たれており、壮観である。前述の堀切・三重堀切からはいずれも竪堀が長く落ち、畝状竪堀の一部となっている。また主郭西側には張り出した堡塁があり、その先の西尾根には二重堀切が穿たれている。梨子ヶ岡城は、規模の小さい小城砦であるが、これだけ徹底して防御が固められているのは、少数の兵力で城を守りきるための工夫だろう。見応えがあって素晴らしい遺構である。
西尾根の二重堀切→IMG_2002.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.326689/135.349996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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甲ヶ峯城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1804.JPG←城域入口の堀切・土橋
 甲ヶ峯城は、山家城とも呼ばれ、この地の豪族和久氏の居城である。1563年に和久左衛門佐義国によって築かれたとされる。和久氏は、戦国時代に天田郡(福知山)一帯を治めた横山城主塩見氏の一族で、塩見頼勝の4男長利が和久城に分封されて和久氏を称した。その後、戦国後期に丹波守護代内藤氏の命で、天田郡から何鹿郡に入部して甲ヶ峰城を築いたと言われている。しかし一方、和久氏の菩提寺とされる照福寺の寺伝では、1445年に和久氏の菩提寺として創建されたと伝えられており、時代が合わないので、今後考証の余地がある。1565年の和久郷合戦で、八木城主内藤宗勝(実は松永久秀の弟)が黒井城主赤井直正と戦って大敗・討死すると、和久氏は赤井氏に服属した。明智光秀が丹波を平定すると、光秀に降ってその配下となり所領を保ったが、城破却の命に従わず1580年に滅ぼされた。尚、照福寺は、現在は国道27号線近くの丘陵地にあるが、往時は甲ヶ峯城の出曲輪として山上にあったと言われ、和久氏はこの出曲輪を「寺庵」と称して破却しなかったため、光秀の討伐を招いたと言う。

 甲ヶ峯城は、標高236mの山上に築かれている。西麓の伊也神社から登り道が整備されている。本城は、山上に段差だけで仕切られた主郭・二ノ郭を置き、その両側に腰曲輪を築き、前面に三角形状の三ノ郭、南の尾根に段曲輪群を配している。大手は南西の尾根で、城の入口には中央に土橋を架けた八の字形の堀切を穿って防衛し、三ノ郭から二ノ郭に至る城道側方にも2本の竪堀を穿って防御している。また主郭背後には堀切を穿って尾根筋を遮断している。この背後の尾根を北東に辿ると、砦もしくは物見らしい土壇があり、その北西の先に照福寺跡とされる出曲輪がある。出曲輪は背後に虎口を備え、東側に低土塁を築き、前面に曲輪群を築いており、いかにも城砦の造りである。遺構としては以上で、それほど規模は大きくなく、技巧性もあまり感じられない城であるが、藪が伐採されて整備されているので、曲輪の姿が綺麗でよくわかる。
主郭背後の堀切→IMG_1850.JPG
IMG_1867.JPG←出曲輪の虎口
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.302019/135.322080/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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山家陣屋(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1733.JPG←切岸に残る石垣
 山家陣屋は、現地解説板などでは山家城と称され、近世山家藩の藩政を司った陣屋である。1582年に、谷出羽守衛友が羽柴(豊富)秀吉より1万6000石で山家に封じられて陣屋を構えた。衛友の父、大膳亮衛好は、織田信長に仕えて1576年の石山本願寺攻めで軍功を挙げ、家紋「揚羽蝶」を賜ったが、1579年の三木城の別所長治を攻めて討死した。衛友も父と共に参戦していたが、父討死の時その屍を奪い返し、仇を討ち、秀吉から感状と「五三の桐」の紋を受けて山家に所領を賜ったと言う。以後、移封されることなく幕末まで存続した。

 山家陣屋は、上林川東岸の段丘角部に築かれている。現在、城址公園として整備されている。さすがに1万石を超える石高の大名の陣屋だけあって、かなり広大な面積を持った陣屋である。しかも丹波という平地の少ない土地柄もあって、陣屋が築かれたのは街中の平地ではなく、急崖に囲まれた段丘辺縁部で、選地は中世城郭そのものである。陣屋の敷地内には井戸跡や石積みの段差が残り、曲輪辺縁部は一段低く帯曲輪状になっている。外周には横堀が穿たれ、切岸には一部石垣が残っている。北西辺には塁線に折れを設けて横矢を掛け、切岸下の西側の斜面は広い緩斜面となって、曲輪として機能していたと考えられる。予想外に良好な城郭遺構で、陣屋というより城の名が相応しい。
外周の横堀→IMG_1742.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.301371/135.317852/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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高城城(京都府綾部市) [古城めぐり(京都)]

IMG_1631.JPG←主郭背後の2本土橋の堀切
 高城城は、八田城とも言い、何鹿郡の国人領主大槻氏一族の城である。南北朝時代に大槻左馬頭清宗がこの地の地頭となって入部し、高城山上に高城城を築いたと言われている。大槻氏の事績はあまり明確ではないが、足利尊氏・直義兄弟が全国に建立した安国寺の寺役の職務を司ったと言われ、そうした室町幕府との結び付きがあったためか、室町時代を通じて何鹿郡の中北部に勢力を扶植し、高城大槻氏を始め、高津城栗城などに一族が蟠踞した。天正年間(1573~92年)の明智光秀による丹波平定では、大槻清秀は明智勢に攻められて自刃したと言う。1591年、清秀の子清勝は500石で豊臣秀次に仕え、1615年の大阪夏の陣で討死したと伝えられている。又、高城城は1406年に地震などで大破したと言う。

 高城城は、標高298.7m、比高210mの高城山に築かれている。現在ではほとんど人が入らない山らしく、登山道は東麓の久香寺からのもの以外は道がわからなくなっている様だ。東の登山道を使うと、途中神社やNTT基地局を経由する長い尾根の縦走をして、ようやく城域に達する。最初に眼前に現れるのが主郭背後の堀切で、ここには東掛城で見られたのと同じ2本土橋が架かっている。主郭は背後に低土塁を築いた城内で一番広い曲輪で、南西部に西尾根に連なる曲輪群に通じる城道が降っている。西尾根の曲輪群は切岸だけで連ねられた段曲輪群で、先端に当たる最下段の曲輪の側方に枡形虎口が築かれている。この他には北出曲輪と南出曲輪があり、北出曲輪には背後に土橋の架かった堀切が穿たれ、南出曲輪には側方に竪堀が穿たれている。これらに繋がる城内通路は比較的明瞭に残っている。遺構としては以上で、単純であまり面白みのない遺構である。藪も少々多めなので、写真映えもせずパッとしない城である。
最下段曲輪の枡形虎口→IMG_1660.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.348815/135.299442/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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