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矢島城(栃木県益子町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5135.JPG←主郭の現況
 矢島城は、長久年間(1040~44年)に七井刑部大夫頼治が築いたと言われる城である。頼治は、矢島郷と常陸国中郡の計48郷を領し、矢島郷に居城を築いたと『岩松家系図』に伝えられている。頼治から13代の裔、刑部大夫綱代の時、1559年に益子城主益子勝宗に攻められて落城し、綱代は多田羅館に移り、その後の矢島郷は益子氏の支配するところとなった。尚、矢島城の南にある日枝神社は、その社伝によれば1040年に七井刑部大夫頼治が再建し、後に鎌倉前期の1216年にも岩松新六郎綱持が本社を再建したと言う。

 矢島城は、小貝川東岸のなだらかな丘陵中腹に築かれている。現在は一部が民家のほかは、一面の麦畑に変貌している。戦後間もなくの航空写真を見ると、かなり耕地化による湮滅が進んでいるものの北半の遺構が残っており、北に突出した櫓台を築き、周囲を空堀で囲んで防御した単郭の城だったらしいことがわかる。また主郭内部の北東寄りにL字型の土塁が見られ、何らかの城郭構造があったらしい。これらは、畑の畦道の形にその名残を残しているだけである。残念と言う他はない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.500952/140.094824/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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市花輪館(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5118.JPG←主郭切岸と周囲の堀跡の畑
 市花輪館は、貞治年間(1362~68年)に益子喜市郎勝直により築かれたと言われる。『益子系図』によれば、勝直は益子越前守勝政の嫡男で市花輪に住したが、益子安正が死没した時、その子十郎丸が幼かったため、勝直が入嗣して家督を継いだと言う。しかし益子氏の系図はいくつか異本があって、正確なところは不明である。また別説では、勝直の弟市花十郎直正(直政)が「市花館」を築いて居住したとも言われ、勝直が住したのは「向館」であったともされていて、はっきりしたことはわかっていない。いずれにしても、宇都宮氏麾下で勇名を馳せた紀清両党の一、益子氏一族の居館であったことはほぼ疑いのないところであろう。

 市花輪館は、桜川西岸の比高10m程の低丘陵上に築かれている。宅地と畑に変貌しており、遺構の残存状況は良好とは言えないが、民家が建っている主郭は周囲の畑より一段高くなっており、切岸で明瞭に区画されている。主郭外周には部分的に土塁もある様だ。主郭周囲は畑が一段低くなっており、幅10m程の空堀が廻らされていたらしい。この他、北東にやや離れて土塁と堀切道があったらしいが、消滅したと言う。台地上にわずかに館の痕跡を残す城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.532286/140.102355/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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稲毛田城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5090.JPG←僅かに見られる土塁跡らしい土盛
 稲毛田城は、歴史不詳の城である。一説には、稲毛田重正や宇都宮氏の家臣綱川右近(左近丞とも)が城主であったとも、或いは古く平城天皇の御宇(9世紀初頭)に下野助・乙貫朝景(朝則?)が築いた城とも言われる。また1361年、稲毛田重一が城主の時に宇都宮氏綱に滅ぼされ、そのまま廃城となったとも伝えられるが、詳細は不明である。
 稲毛田城は、現在崇信寺の境内となっている。方形単郭居館であったらしく、昭和30年代までは南東部以外の3/4程度の範囲の土塁と空堀が残っていたようだが、その後の墓地造成などにより、遺構はほぼ完全に湮滅している。わずかに北側に土塁の残欠らしい土盛が見られる程度で、壊滅的な状況で残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.570588/140.067186/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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祖母井陣屋(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5078.JPG←陣屋跡の現況
 祖母井陣屋は、大田原藩が飛地領を治めるため1602年に築いた陣屋である。1600年の関ヶ原合戦の際、大田原城主大田原晴清は徳川家康に臣従し、大田原城に詰めて会津の上杉景勝の南下を抑える功を挙げ、1602年に加増を受けて12400石を領する大名となった。芳賀郡内に多くの飛地領を有し、その統治のため同年、祖母井に代官陣屋を置いた。祖母井陣屋はそのまま幕末まで存続した。
 祖母井陣屋は、現在の芳賀東小学校の地にあった。遺構は全く無く、校地の端に小さな解説板が建っているだけである。時勢柄、校地に入れないので、解説板を遠目に望むしかできない。各地の多くの陣屋跡と同じく、往時を忍ばせるものは皆無である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.547871/140.062551/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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祖母井城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5071.JPG←解説板の後ろに残る土塁
 祖母井(うばがい)城は、宇都宮氏の家臣祖母井氏の居城である。祖母井氏は、元々は下総の名族千葉氏の一族で、大須賀氏の庶流に当たる。大須賀氏の事績については松子城の項に記載する。大須賀四郎胤信の3男嗣胤は、執権北条時頼が三浦泰村を滅ぼした1247年の宝治合戦で敗北し、宇都宮氏を頼って下野国君島(現在の真岡市)に移り、君島十郎左衛門尉を名乗った。そして、嗣胤の次男貞範がこの地に移り住んで祖母井左京介を称し、祖母井氏の祖となったと言われている。以後、祖母井氏は代々宇都宮氏に忠節を尽くし、伊予守護を一族で兼帯していた宇都宮氏が、鎌倉後期になって8代貞綱の弟泰宗を初めて伊予に下向させて伊予宇都宮氏を分立した際、その家臣団の一員として祖母井一族も伊予に下向している(現在では、祖母井姓は栃木県より愛媛県の方が多いらしい)。祖母井城は、天文年間(1532~55年)に祖母井信濃守吉胤が築いたと言われ、吉胤は1558年の多功城での戦いで上杉謙信の軍勢と戦って討死した。また信濃守定久は、戦国末期の小田原北条氏による宇都宮攻撃の際、北条勢を迎え撃ち、また多気山城の守備勢の一翼を担った。信濃守高宗は豊臣秀吉の朝鮮出兵に従軍し、戦功を挙げた。1597年に宇都宮氏が改易になると、祖母井氏も没落し、祖母井城は廃城となった。

 祖母井城は、五行川東岸の低大地の西際近くに築かれていた。現在主郭跡の一部は公園となっているが、遺構は壊滅的な状況である。公園東の旅館の裏に長さ10m程の土塁が残っているのが、唯一の明確な現存遺構である。戦後間もなくの航空写真を見ると、主郭の北・西・南の三方を巡る堀跡が確認でき、主郭北辺には土塁も残っている。前述の現存遺構の土塁は、主郭南東部のものの様だ。主郭の北と南にも曲輪らしい跡が見られ、北郭の西・北外周にやはり堀跡が見られる。現状の航空写真と見比べると、この北郭の堀跡は、現在は田福院外周の水路となって往時の名残を残している様だ。北郭堀の外周にも帯曲輪があった様である。南郭は現在の芳賀町体育館のある場所で、昔は学校が建っていたらしく、戦後の写真で既に破壊を受けている。南郭の更に南にももう1郭あった可能性があるが、戦後間もなくでも耕地化による改変が進んでいて、はっきりとはわからない。いずれにしても、前述の土塁だけが明確な城の名残である。
北郭の堀跡の水路→IMG_2719.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.550362/140.059955/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平石館(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5065.JPG←延生寺跡
 平石館は、宇都宮氏の家臣平石紀伊守高治の居館である。高治は祖母井城主祖母井信濃守吉胤の弟で、天正年間(1573~92年)に平石館を築いたと言う。1597年に宇都宮氏が改易になると、平石氏も没落し、平石館は廃館になったと推測される。
 平石館は、大正期の耕地整理で土塁・空堀が全壊し、遺構は完全に湮滅している。その為場所も正確にはわからないが、日枝神社の南東にあったらしい。戦後間もなくの航空写真を見ても既に場所の特定ができないほど改変されてしまっている。尚、南方には平石氏の菩提寺であった延生寺跡がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.540364/140.060320/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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下之庄代官屋敷(栃木県市貝町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5063.JPG←貴重な文化財である代官屋敷
 下之庄代官屋敷は、江戸時代に交代寄合芦野家(那須七騎の一で芦野城の故地に陣屋を構えた)の飛地に置かれた陣屋である。この地の名主であった藤平(とうへい)家が郷代官を代々勤めたと言う。この郷代官藤平家は、以前に「きえ」さんから神楽ヶ岡城に頂いたコメントによると、戦国末期の「西方崩れ」で西方氏(西方城主、宇都宮氏の一族)と共に赤羽に移った神楽ヶ岡城主藤平一族の末裔であろうとのことである。

 下之庄代官屋敷は、往時の陣屋門と母屋が残っている。周囲は水堀で囲まれているようだが、夏場だったので薮で一部しかわからなかった。陣屋門と母屋は茅葺屋根の古い建築物で、江戸前期に建てられたと言う貴重な文化財なのであるが、なぜか町の史跡には指定されていない。見たところ、茅葺屋根がだいぶ傷んでいたので、市貝町の今後の文化財保護行政に期待したい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.530312/140.062144/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:陣屋
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水沼城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_5052.JPG←城址付近の現況
 水沼城は、宇都宮氏の家臣水沼五郎入道の居城と伝えられている。元は、天文年間(1532~55年)の頃に頼母玄蕃守と言う武士が居城としていたが、宇都宮氏によって滅ぼされ、代わって水沼氏が入城して武威を振るったと言う。1597年の宇都宮氏の改易により廃城となった。

 水沼城は、野元川という小河川の東岸の宿水沼という地にあったとされる。「宿の古城」とも呼ばれるが、遺構が完全に湮滅しているため、その正確な場所は不明である。しかしどこの水田かわからないが、水田中に「本丸」「中丸」「櫓下」という地名が残っているそうなので、戦後間もなくの航空写真をじっくり見て城の痕跡が残っていないか探してみた。すると、宿水沼集落の南の水田中に堀跡のような帯状の水田で囲まれた、ややひしゃげた方形の畑があり、ここが主郭であったものだろうか。この主郭推定地の南西角は、現在はお堂の建つ墓地となっており、周囲の水田より1m程高く、主郭の唯一の痕跡なのかもしれない。戦後の航空写真には、主郭と推測される方形の畑の南や東の水田にも堀跡らしい形が認められるので、主郭の周りに二ノ郭が広がっていたものと推測される。いずれにしても現在では完全に失われた城である。
 尚、南西の丘陵地に舟戸城があり、水沼城の有事の際の詰城だったと推測される。
主郭の唯一の名残?の墓地→IMG_2714.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.534692/140.027468/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高橋城(栃木県芳賀町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2708.JPG←南の堀跡の畑
 高橋城は、延文年間(1356~61年)に高橋刑部左衛門尉義通が築いたと言われている。高橋氏は常陸の名族佐竹氏の出と言われ、信州7千石を領して木曽義仲に従っていたが、義仲滅亡後に関東に下向し、宇都宮氏を頼ってその家臣となったとされる。以後、高橋城を本拠として宇都宮氏の家臣として続き、16代小太郎判官越後守貞勝までの歴代の居城となった。1597年に宇都宮氏が改易になると、高橋城も廃城となった。尚、現在城跡に残る「小太郎判官の墓」は、高橋氏12代御子之介義途のものと伝えられている。

 高橋城は、五行川東岸の平地に築かれていた。現在は一面の水田に変貌し、遺構は完全に湮滅している。昭和20~30年代の航空写真を見ると、南西角に前述の「小太郎判官の墓」を置き、北・西・南を巡る堀跡のような帯状の水田の形状が確認でき、これが主郭であったろうと推測される。西と南の堀は直線状だが、北の堀は弧を描いた形状である。今は耕地整理で壊滅し、高橋小太郎の墓と南側の堀跡の畑しか残っていない。東には水路を挟んで高椅神社が建っている。
主郭南西角に残る小太郎判官の墓→IMG_5040.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.519699/140.042231/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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京泉館(栃木県真岡市) [古城めぐり(栃木)]

IMG_2707.JPG←京泉館跡とされる民家付近現況
 京泉館は、宇都宮氏麾下で勇猛で知られた紀清両党の一、芳賀氏の初期の居館である。芳賀氏は後に御前城、更に真岡城と居城を移している。伝承では、清原真人龍口蔵人高重が、985年、花山天皇の怒りに触れてこの地に配流され、京泉館を構えたと言う。その後裔芳賀高親の時に源頼朝の奥州合戦に従軍した後、御前城を新たに築いて居城を移したと言う。

 京泉館は、五行川東岸の平地に築かれていた。かつては二重の堀と土塁に囲まれた平城であったらしいが、昭和初期の耕地化で遺構は完全に湮滅している。その為、現地に行っても館のあった正確な場所はわからない。昭和20年代前半の航空写真を見ても、畑のなんとなくの形状からこの辺りが主郭だったのかな?と想像する程度である。『日本城郭大系』によれば、一部の土塁が残るというが、これもよくわからない。芳賀氏草創期の城館であるが、非常に残念な状態である。
 尚、ここから真南に1.3kmの所に、芳賀氏のものと伝えられる墓石群が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.480561/140.032082/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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