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昌渓院付城(静岡県伊豆の国市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07750.JPG←主郭の櫓台
 昌渓院付城は、小田原の役における韮山城攻囲戦の際に、豊臣秀吉の家臣で讃岐高松城主の生駒親正が築いた付城である。標高109m、比高89mで昌渓院の裏山に築かれている。昌渓院の南の墓地脇から尾根筋に登り道がついており、僅かな踏跡を辿れば主郭まで到達できる。基本的には段曲輪群で構成された簡単な陣城であるが、尾根途中には物見台らしい小郭が設けられ、そこから数段の平場が連なって主郭まで至る。主郭前面には櫓台が築かれ、主郭周囲には土塁や腰曲輪を伴っており、また主郭の北東には二重堀切、北西にも1本の堀切と計3本の堀切が穿たれ、この他に主郭周囲の防御を固めている。堀切は比較的小規模であるが、内1本は比較的大きな高低差がある。全体に薮が多いが、遺構はほぼ完存している。
 尚、昌渓院のご住職にお話を伺うことができたが、韮山城攻囲戦は割りとのんびりしたものだったらしい。本格的な戦闘は少なく、韮山城兵が城を抜け出して外部とも良く連絡を取っていた様な話も伝わっているそうである。
北東の2本目の堀切→DSC07787.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.58.8.1N35.2.30.3&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.96584027772&latitude=35.045268418802
タグ:陣城
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山木館(静岡県伊豆の国市) [古城めぐり(静岡)]

DSC08225.JPG←高台上の館跡(石垣の上)
 山木館は、山木判官平兼隆館とも言い、平安末期に伊豆の目代であった山木兼隆の居館である。伊豆蛭ヶ小島に配流されていた源頼朝が1180年に挙兵すると、真っ先に目標とされて襲撃されたのが山木館であった。兼隆を血祭りに挙げた頼朝軍は、その後石橋山の合戦に望むのである。
 山木館は、韮山城東方の台地上に位置しており、現在は民家の敷地に変貌している。周りを石垣に囲まれた高台であるが、この石垣は江戸時代後期に築かれたものらしい。源平盛衰記によれば、櫓や堀が構えられていたと言うが、現状からは確認できない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.57.54.1N35.3.7.1&ZM=9

タグ:居館
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韮山城支砦群(静岡県伊豆の国市) [古城めぐり(静岡)]

 韮山城の南東には、標高128m、比高100m程の独立状の山地に、天ヶ岳砦を頂点とする支砦群が築かれて外郭を形成していた。比高僅か35m程しかない韮山城が、小田原の役の際に3ヶ月にわたる籠城戦に耐えたのは、一つにはこの外郭が大きな防御力を発揮したからと考えられる。八丁堀さんのHP「土の古城探訪」に詳しい解説があり、それをガイドとして遺構を巡ってみた。

<江川砦>
DSC07305.JPG←江川砦の畝堀
 江川砦は、支砦群最北端を守る砦で、韮山北条氏の重臣江川氏の屋敷のあった江川曲輪背後の丘陵上に築かれている。南北に長い尾根に沿って数段の曲輪が築かれ、尾根筋を分断する2本の堀切と、東側斜面にも横堀があり、その外側に土塁と腰曲輪も置かれている。見所は堀切であるが、いずれの堀切も規模が比較的大きい。特に2番目の堀切は、河村城ばりの畝堀で、見事な遺構を残している。

 場所:http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.9590416669&latitude=35.053610575693

<天ヶ岳砦>
主郭南の片堀切→DSC07391.JPG
 韮山城支砦群の主峰であり中枢である。標高128mの山頂を頂点に、四方に伸びる細尾根に広範に遺構を残している。規模の小さな堀切が各所に多数築かれ、多くの段曲輪群で構成されている。頂部の主郭南には方形に繰り抜いた片堀切があり、非常に珍しい形の堀切である。この片堀切の脇は、細い蟻の戸渡り状の土橋となっている。東尾根には、尾根筋の道に沿って土塁が並走するが、この辺りは攻城軍側の築いた仕寄遺構であるらしい。また西尾根の先の和田島砦との間には城中最大の大堀切があり、豪快である。八王子城太鼓曲輪ばりの大堀切で、側方に削り残しの岩があり、もしかしたら畝堀であったかもしれない。
DSC07608.JPG←西尾根の大堀切

 場所:http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.95793055571&latitude=35.049817897667

<金谷砦>
仕寄土塁(畝状阻塞)→DSC07410.JPG
 天ヶ岳砦の南の尾根を守る砦。砦主郭の虎口には土塁が築かれている。また細尾根上に連続する仕寄土塁が築かれる他、尾根筋に沿って長土塁も築かれている。

 場所:http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.9593194444&latitude=35.047782374933

<土手和田砦>
DSC07550.JPG←主郭南側の畝堀
 支砦群最西方を守る、半独立状の丘陵地に築かれた砦である。北側は藪がひどいが、それ以外は薮が伐採されており遺構の確認がしやすい。主郭南側の堀はここも畝堀で、L字状にクランクし竪堀に変化している。この畝堀の南側に櫓台状の高台があるが、ここに意図が謎のL字型の土壇がある。また、土手和田砦から天ヶ岳砦に続く尾根には2~3段の段曲輪が築かれ、そこを登った先に畝堀の堀切がある。この堀切の両側から2本の竪堀が落とされている。
天ヶ岳砦に続く尾根の畝堀→DSC12746.JPG

 場所:http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.95359722202&latitude=35.04979153967

<和田島砦>
DSC07635.JPG←主郭虎口
 和田島砦は土手和田砦の南に位置し、土手和田砦と連携して支砦群最西方を守る砦である。割と単純な直列段曲輪群で構成された縄張りで、主郭には若宮八幡神社が鎮座している。主郭の虎口が明瞭に残り、どうも前面の虎口は櫓門であったように見受けられる。

 場所:http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.9553194441&latitude=35.047830257586

<岩戸山砦>
長土塁→DSC07829.JPG
 追越山付城に相対する最東方の砦。金谷砦から東に伸びる尾根に築かれており、先端には広い平場があり、まさしく防御陣地であった様である。この平場から尾根に繋がる上方には穴がいくつもあるが、蛸壺遺構であろうか?またこの砦で特徴的なのは、尾根筋に沿った長土塁の遺構で、ゆるやかなカーブを描く土塁遺構は会津九々布城の様である。この砦と金谷砦の間も大堀切で分断されている。
DSC07870.JPG←大堀切

 場所:http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.96362499946&latitude=35.047769038701

 北条氏の城で本城を防衛する支砦群としては、足柄城周辺城塞群があったが、足柄城のものは割りとささやかな遺構であったので、韮山城支砦群も正直それほど期待はしていなかった。しかし畝堀あり、大堀切あり、長土塁ありと予想外に変化に富んだ遺構群で、非常に楽しめた。一通り回るには半日ほどを要するが、一見の価値はある。また攻防の場となった仕寄遺構が残るというのも珍しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.57.39.3N35.2.47.9&ZM=9
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江川邸(静岡県伊豆の国市) [その他の史跡巡り]

DSC07200.JPG
 江川邸は、元小田原北条氏の家臣で、江戸時代には韮山代官となってこの地を治めた江川氏の屋敷である。江川氏の遠祖宇野氏は、清和源氏の流れを汲む大和の武士であったが、保元の乱に敗れて伊豆韮山の地に移住したと言われている。1493年に伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆に進出すると23代江川英住は宗瑞に従って龍城山を提供し、宗瑞はこの山に韮山城を築いた。その後、5代にわたって北条氏の幕僚となり、韮山城麓の居館(江川曲輪)とその裏山の砦(江川砦)を守備して韮山城防衛の一翼を担った。戦国末期には、北条家中で外交を担当した韮山城主北条氏規に従って徳川家康との交渉などに当たった為、家康との間に親交があり、1590年の小田原の役での韮山城籠城戦では、韮山城開城の交渉を行なった。28代江川英長は徳川家康に仕え、徳川幕府の下で韮山の代官となり、関東南西部も含めた広大な領域を管轄した。以後、代官を世襲して幕末まで至り、36代江川英龍(坦庵)は江戸防衛の台場砲台建設を企画担当し、韮山反射炉を築造して銃砲を鋳造し、日本初のパンを作るなど、多方面に渡る活躍をした。また佐久間象山の師でもあったと言い、日本の近代化にも多大な貢献をした。

 江川邸は、現在国の重要文化財となり、一般に公開されている。鎌倉・室町時代より続くと言われる主屋の屋根裏には、親交のあった日蓮の直筆棟札が掲げられている。その霊験もあってか、豊臣軍の韮山城攻撃の際にも主屋や裏門は残り、特に裏門の門扉には、当時の攻防の際の鉄砲や鏃の跡が残っていると言う。その他、井戸や枡形、宗瑞手植えとも言い伝えられるきささげの木なども残り、興味深い。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.57.45.1N35.3.4.4&ZM=9
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韮山城(静岡県伊豆の国市) [古城めぐり(静岡)]

DSC07054.JPG←横矢の掛かった搦手虎口
 韮山城は、小田原北条氏の始祖伊勢宗瑞(北条早雲)が居城として築き、北条氏の最期となる小田原の役では豊臣方の大軍に囲まれて籠城戦を続けた、戦国北条氏5代100年の歴史を刻んだ城である。宗瑞は、1491年9月に堀越公方足利茶々丸を滅ぼして伊豆全土を平定すると、韮山城を築いて居城とした。その後、相模に進出して大森藤頼の拠る小田原城を謀略を以って攻め落とした後も、小田原城には嫡男氏綱を入れ、自身は韮山城を居城とし続け、1519年にここで没した。その後、関東管領山内上杉氏ら旧勢力を駆逐して、着々と関東に勢力を伸ばした北条氏は、3代氏康の頃に小田原城を本城とした支城網が整備され、韮山城は領国西方を押さえる一級支城として重要拠点であり続けた。1590年、全国制覇を目指す豊臣秀吉が北条討伐(小田原の役)を始めると、韮山城は山中城と共に小田原防衛の前線基地として、4代氏政の弟氏規が城主として3600の兵と共に立て籠もり、豊臣方4万4千余の大軍相手に善戦した。豊臣方の徳川家康は氏規とかねて親交があったため、朝比奈泰勝を使者として説得工作を始め、氏規は3ヶ月の攻防戦の末にようやく開城・降服した。その後間もなく5代北条氏直は小田原城を開城して秀吉に降り、戦国大名北条氏は滅亡したが、北条家中で外交を担当して和平派でもあった氏規は、1591年に秀吉に許されて河内狭山を宛がわれた。赦免されつつあった当主氏直が若くして死ぬと、氏規の系統が狭山北条氏として幕末まで存続した。一方、開城後の韮山城は、関東に入部した徳川家康の持ち城となってその家臣内藤信成が城主となり、関ヶ原合戦後の1601年、信成の駿府転封と共に廃城となった。

 韮山城は、比高35m程の南北に長い丘陵上に築かれた平山城で、北から順に三ノ丸・権現曲輪・二ノ丸・本丸・南郭と曲輪を連ね、各曲輪間を堀切で分断した典型的な連郭式の縄張りである。西側山麓の平地部には御座敷と呼ばれる城主居館が置かれ、外周を水堀で囲んで防御していた。また韮山城の南東側の山地には、天ヶ岳砦を頂点とする支砦群が築かれて外郭を形成していた、複合城郭でもあった。韮山城は現在公園化されて整備されており、その遺構を楽しむことができる。小じんまりしているが小技の効いた縄張りで、三ノ丸と権現曲輪の間の堀切に繋がる搦手虎口は、横矢の掛かった切通し状で、櫓台が睨みを効かせている。三ノ丸は韮山高校のテニスコートになっているが、周囲全周には高土塁が残っている。最高所に置かれた本丸は小さく、実質的には詰丸の様である。南郭は土塁で2つに分けられ、塩蔵・弾薬庫などが置かれていたらしい。南郭の北側は囮虎口の様な形にも見える。いずれの曲輪も土塁で防御され、本丸付近には腰曲輪が取り巻き、更に天ヶ岳砦に続く南東部の尾根筋にも堀切を介して2つの曲輪を連ねている。一方山麓部は、西側の御屋敷跡は韮山高校や住宅地に変貌し、遺構はほとんど湮滅している。東側の城池に面した平地には、腰曲輪状の平場の他、岸辺に船着場のような窪地が残っている。また三ノ丸東側だけ、水堀が残っている。全体としての城の規模は鉢形城八王子城と比べればかなり小さく、現状からすれば要害性も高いとは言えず、いくら外郭城塞群と連携していたとは言っても、この城でよく大軍相手に3ヶ月も籠城できたものだと思う。おそらくは攻撃側も、大兵に物を言わせて取り囲むだけで、本気で攻めるつもりはあまりなかったのかもしれない。尚、韮山城からは富士山の雄大で美しい姿をよく眺めることが出来る。宗瑞が終生この城を離れなかったのは、この景色を気に入っていたからなのかもしれない。
わずかに残る水堀→DSC07181.JPG


 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.57.31.4N35.3.1.3&ZM=9
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蛭ヶ小島配流地(静岡県伊豆の国市) [その他の史跡巡り]

DSC07515.JPG←富士を望む頼朝・政子像
 蛭ヶ小島は、平治の乱後に源頼朝が配流された地である。1160年、平治の乱で源氏の棟梁源義朝は敗死し、その子でまだ14歳の青年であった兵衛佐頼朝は、池禅尼の助命嘆願によって平清盛に一命を救われ、伊豆蛭ヶ小島に配流となった。それから1177年に北条政子と結ばれるまでの17年間を、頼朝はこの地で過ごした。そして1180年に旗揚げし、平家の目代山木兼隆を攻め滅ぼした後、石橋山で大庭景親率いる頼朝討伐軍を戦いを交えた。その経緯は、石橋山古戦場の項に記載する。この後、再起した頼朝は鎌倉に幕府を開き、日本史上初めての武家政権を樹立するのである。
 蛭ヶ小島は、現在は周りを田畑で囲まれた一面の平地であるが、往時は低湿地帯の中に田島(中洲)が点在する、浮島の中の一つであったらしい。遺構らしいものは何もないが、公園として整備され、若き頼朝と政子夫婦を描いた銅像が、富士山を遥かに望んでいる。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.57.15.7N35.2.53.7&ZM=9
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金山城(静岡県伊豆の国市) [古城めぐり(静岡)]

DSC06803.JPG←北出城の堀切
 金山城は、畠山三城の一つである。南北朝時代、足利尊氏の次男基氏が鎌倉公方となり、その執事には上杉憲顕の後任として畠山国清が就いていた。これは、足利尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱の際に、上杉憲顕が直義派であった為、罷免されて自領の越後に逃れ、これに代えて尊氏は畠山国清を鎌倉府の執事に任命した。しかし国清は、後に基氏との間に軋轢を生じ、1361年、失脚した国清は弟義深・義熙と共に自領の伊豆で基氏に反旗を翻した。この時、金山城・修善寺城・三津城の3城を築いて立て籠もり、畠山三城と呼ばれた。しかし鎌倉府の軍勢に攻められて次々と城を落とされ、結局基氏に降服した。その後の国清の消息は定かではないが、大和で窮死したとも言われている。

 金山城は、比高322mの峻険な城山山上に築かれている。この山はほぼ垂直の断崖がそびえ立つ険しい山で、ロッククライミングの名所にもなっている。金山城は、南北朝時代の城らしく古い形態の城で、基本的には段郭群のみで構成されている。大きく主城部・北出城・南出城に分かれており、全てを含めると城域は相当に広い。しかし各曲輪の規模は比較的小さく、堀切もささやかな規模で竪堀もわずかである。主郭は山頂ではなく、山頂から西に伸びる尾根の下に築かれており、北辺を土塁で防御したほぼ方形の平場である。主郭から山頂に向かう東の尾根は狭い痩せ尾根で、途中には岩を切通し状にした通路も存在している。この石の切通し虎口は面白い工夫である。更に東には物見台の曲輪があり、城山山頂も物見台として機能したことが、その眺望の素晴らしさから伺うことができる。一方、北出城は深い藪の中にあるが、腰曲輪群や土塁・堀切などが残っている。南出城は、古道を取り込んだ構造の様で、腰曲輪群のほか、南下方には虎口か横堀らしい遺構が見られる。しかしこの周辺はシダが密生しており、遺構の形状がほとんど確認できない。またこれらの山上の遺構とは別に、谷戸を登る登山道の中腹に広い緩斜面があり、大手門の置かれた場所だった可能性もある。いずれにしても、南北朝期の古い城で、そのまま放棄されたものであろう。
岩の切通し虎口→DSC06709.JPG
DSC06629.JPG←ロッククライミングの名所

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E138.56.1.2N35.0.3.4&ZM=9
     【主城部の主郭】
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.92828472258&latitude=35.005041070849
     【北出城】
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.9287847225&latitude=35.007332689625
     【南出城】
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.92620138903&latitude=35.004122569137
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大見城(静岡県伊豆市) [古城めぐり(静岡)]

DSC06555.JPG←西斜面の竪堀
 大見城は、伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆平定戦で、宗瑞方に付いた大見三人衆が守りきった城である。元々は平安末期に在地土豪の大見平三家政か、その子の大見小藤太成家が築いた詰城であったと考えられている。曽我物語によれば、成家は工藤祐経の郎党で、祐経の命により伊東祐親の嫡男河津三郎祐泰を遠矢で射殺した。その後、子を殺された伊東祐親の報復によって、大見川の川岸で討たれたと言う。戦国時代に入ると、梅原六衛門・佐藤藤左衛門・佐藤七郎左衛門の3人は大見三人衆と呼ばれ、伊勢宗瑞の配下に入って柏久保城に拠る宗瑞を攻撃中の狩野勢を背後から攻めて撤退させるなど、宗瑞と狩野氏との戦闘で重要な役割を果たし、大見城を拠点として宗瑞の伊豆平定に貢献した。大見城は、この前後に現在の形に改修されたものと考えられる。その後、小田原北条氏の治世には大見三人衆が大見城を守り、1590年に北条氏が滅亡すると廃城になったと考えられる。

 大見城は、東伊豆の伊東と修善寺を結ぶ街道を押さえる要衝で、比高70m程の山上に築かれた城である。比較的小規模な城で、山頂の主郭の周囲に腰曲輪を構え、主郭前面には段曲輪群を配置して現在神社が立っているニノ郭まで連ねている。この城で特徴的なのは、斜面上に何本も穿たれた竪堀で、この程度の小規模な山城にこれほど明瞭に縦堀が何本もあるのは珍しい。また主郭背後は、深さ10m程度の大堀切で尾根筋を分断している。近年公園として整備されており、解説板や表示杭も設置され、遺構が非常にわかりやすい。ただ、登城道の敷設で一部遺構が破壊されている部分もあるらしく、ちょっと惜しい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.0.7.0N34.56.38.8&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=138.99898611136&latitude=34.947293838484
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鎌田城(静岡県伊東市) [古城めぐり(静岡)]

DSC06407.JPG←大手虎口の土橋と横堀
 鎌田城は、小田原北条氏が修築した伊豆半島中部の山城である。元々は、源氏重代の郎党鎌田新藤次俊長が、この地を領して城を築いたと言われている。その後の歴史は必ずしも明確ではないが、出土遺物などから、15世紀後半の伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆平定戦の際に在地豪族の伊東氏が抵抗した城と考えられている。しかし現在残る縄張りは、戦国後期の様相を呈していることから、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際に、下田城と小田原城の中間地点における海上ルートと、修善寺方面からの街道ルートの監視所として、北条氏によって大改修されたものと推測されている。

 鎌田城は、人工のダム湖である松川湖の東にそびえる比高218mの城山に築かれている。その遺構は、予想外に素晴らしく、伊豆の城郭の中では屈指の技巧的縄張りを有している。山頂の平坦な三角形状の曲輪を中心に、周囲に腰曲輪を巡らしており、更に空堀や土塁で防御を固め、三方の尾根筋は全て堀切で分断している。山頂の曲輪は、神社建設で破壊を受けているものの土塁と空堀跡が残り、主郭など大きく3つ程の曲輪に区画されていた様である。尾根を分断する堀切の規模はそれほど大きなものではないが、特に搦手と思われる北西の尾根筋に穿たれた堀切などは、土塁や竪堀を連携させて動線を巧みに屈曲させた技巧的な虎口構造で、更に上方には櫓台がそびえて備えを固めており、明らかに戦国後期の遺構と考えられる。また主郭部周辺に廻らされた横堀や土橋は、各部の規模が大きく見応えがある。大手は南東側と考えられるが、ここは二重横堀で厳重に防御され、大きな土橋で虎口を固めている。この他、横堀を90度屈曲させて竪堀で落とす、北条氏の山城によくある技巧も見られる。城址登り口と主郭内には新しい解説板が建ち、詳細な縄張図が描かれているので、大いに参考になる。伊豆方面では、必見の城である。
搦手の屈曲した動線→DSC06375.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.4.51.7N34.56.11.2&ZM=9
     http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?longitude=139.07734722216&latitude=34.939770300901
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稚児ヶ淵(静岡県伊東市) [その他の史跡巡り]

DSC06328.JPG←稚児ヶ淵の急流
 稚児ヶ淵は、源頼朝と当地の豪族伊東祐親の娘八重姫との間の一子千鶴丸が殺されたと言われる場所である。平治の乱で父源義朝が敗死し、捕らえられた頼朝は、池禅尼の助命嘆願によって平清盛に一命を救われ、伊豆蛭ヶ小島に配流となった。その後、当地で成長した頼朝は、伊東祐親が大番役で在京中に、その娘八重姫と恋仲となり、千鶴丸を設けた。平家に忠節を尽くしていた祐親はこれを知って激怒し、平家の怒りを恐れて、千鶴丸を松川の上流の淵へ沈めて殺してしまったと言う(曽我物語)。
 稚児ヶ淵は、正確な場所は比定されていない様だが、その往時の雰囲気を最もよく残す場所として、鎌田城のある城山北東麓に解説板が建っている。車道脇の解説板の所から下の川辺に降りる小道を下って行くと、その先には往時さながらの急流が残っている。

 場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.5.8.8N34.56.19.5&ZM=9
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