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鷲宮砦(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8055.JPG←堀跡とされる窪地との段差
 鷲宮砦は、南北朝時代に北朝方の武将、高師冬が築いた砦と伝えられている。1338年、北畠顕家・新田義貞らの相次ぐ戦死により、吉野の後醍醐天皇は各地の南朝勢力の再建が喫緊の課題となった。そこで重臣の北畠親房を常陸に降し、坂東の地において南朝勢力の結集を図った。常陸には小田氏など南朝方に残っている武家が多く、これを頼りとしたのである。一方、足利尊氏はこうした常陸での蠢動を抑えるため、1339年、執事高師直の一族、高播磨守師冬を鎌倉府執事として関東に下向させ、師冬は南朝討伐のため関東各地を転戦した。そして南朝方の拠る駒城を攻撃するため、この鷲宮砦を築いたと言われている。1340年5月、師冬は猛攻により駒城を攻略したが、間もなく総反撃に出た南朝方によって八丁砦等の周辺城砦と共に鷲宮砦を奪還されたと伝えられている様だ。

 鷲宮砦は、現在鷲神社の境内となっている。周囲より僅かに高い微高地で、堀跡とされる窪地も見られるが、城砦らしさはあまり感じられず、本当に遺構かどうかははっきりしない。神社の解説にも一切砦のことは触れられていない。皇国史観の支配していた戦前には北朝方は賊軍とされたので顧みられることがなく、南朝方の駒城と違って何らの碑も建っていないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.183905/139.909580/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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和歌城(茨城県八千代町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8014.JPG←二ノ郭に残る土塁
 和歌城は、室町時代にこの地の土豪和歌氏の居城である。文明年間(1469~86年)に下妻城主多賀谷氏の勢力が鬼怒川以西にも及ぶと八千代地方の土豪達もその旗下に入った。永正年間(1504~21年)末に和歌十郎が小田原北条氏に通じていることが露見し、多賀谷家植は飯沼城主赤松民部に命じて十郎を討ったとされる。その後、和歌城の管理は赤松氏に委ねられ、徐々に城郭として整備された。この間、北条氏の北総侵攻により、焼き討ちに遭うこともあった。1589~91年には、多賀谷重経の長男三経が和歌城に仮住まいした後、太田城に移り、和歌城は改めて赤松氏に授けられた。1601年、結城氏の家督を継いでいた徳川家康の次男結城秀康が越前に移封となると、秀康の家臣となっていた多賀谷三経も家臣団を引き連れて越前に移り、太田・和歌両城は廃城となった。
 尚、この歴史の中で出て来る赤松氏は、南北朝史に名高い播磨の土豪赤松円心の後裔とされ、足利一族の内訌、観応の擾乱で直義党に属して各地を転戦した赤松佑弁が、駿河薩埵山の戦いで大敗し、この地に落ち延びてきたとされている。その一族の墓が不動院に残り、また和歌城内に佑弁の供養塔が建てられている。

 和歌城は、低湿地帯に囲まれた半島状台地に築かれている。城内は耕地化されて相当に改変を受けている。現地解説板の縄張図によれば、土塁と空堀で囲まれた3つの曲輪で構成されていたらしい。それに従うと、改変されながらも主郭・二ノ郭の塁線は概ね追うことができ、二ノ郭には東西に土塁が僅かに残っているのが確認できる。薮の中にも北辺の土塁と船入場が残っているようだが、夏場だったので確認していない。城内に残る赤松佑弁供養の五輪塔が、歴史を物語っている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.179696/139.905267/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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水海城(茨城県古河市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8000.JPG←城址付近の現況
 水海城は、古河公方足利氏の重臣簗田氏の居城である。簗田氏の事績については関宿城の項に記載する。当初の水海城は「旧水海城」と呼ばれ、現在の利根川に接する水海南部地域にあったと推測されている。その後、簗田氏は小田原北条氏との抗争を繰り広げながら、奪われた関宿城を攻略して居城としていたが、結局1574年の第三次関宿合戦で北条氏の軍門に降り、関宿城を明け渡して旧水海城の北方に新たな水海城を築いて移住した。1590年の小田原の役の際には、浅野長吉の軍勢の前に開城降伏した。その後関東に徳川家康が入部すると、簗田氏は徳川氏に仕えたと言う。

 水海城は、現在の水海小学校から神明神社にかけての微高地に築かれていたと考えられている。遺構は完全に湮滅しており、城の名残はほとんど見ることができない。城址推定地付近が僅かに周囲より高くなっているだけである。北条氏と堂々と渡り合った簗田氏の居城にしては、悲しい現実である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.142727/139.756479/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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野木宮古戦場(栃木県野木町) [その他の史跡巡り]

IMG_7924.JPG←野木神社
 野木宮合戦は、治承・寿永の内乱(いわゆる源平合戦)における北関東の大規模な戦いである。この合戦の年次については2説あり、寿永2年(1183年)説と養和元年(1181年)説がある。従来は寿永2年説が有力であったが、2015年12月に小山市であった「中世小山一族」という3回シリーズの講座では、菱沼一憲氏が養和元年説について説明をしていた。養和元年説に基づくと、野木宮の北部、下河辺荘の支配をめぐる地域対立が合戦の要因で、当時「下野の両虎」と称された藤姓足利氏と小山氏の対立(共に藤原秀郷の後裔)、更に常陸の志田義広、下総の下河辺行平らを巻き込んだ、下野・上野・下総・常陸の武士達による北関東最大規模の地域紛争であったと解される。この時、源頼朝の弟範頼が合戦に加わっているが、これは小山朝政に旗頭として擁立された可能性があるということであった(これが範頼の歴史の表舞台への実質的な登場となる)。この合戦によって、小山氏より強勢だった藤姓足利氏は没落して源姓足利氏に取って代わられ、秀郷流藤原氏の嫡流が小山氏に移るなど、中世のこの地域の勢力構造を規定することになった。また、頼朝政権が確立する前から源範頼と小山・下河辺ら北関東武士団との結びつきがあり、これが後の範頼を総大将とした西征軍を北関東武士団が支え、西海合戦での困難な持久戦を完遂させた要因になったと推測されている。

 野木宮古戦場は、現在の野木神社の周辺一帯で行われた。この地は思川東岸の河岸段丘の縁に当たり、登々呂木沢・地獄谷などの沢筋が入り込む田園地帯であったと思われる。沢筋は今も残っているが、僅かな窪地に過ぎず、「地獄谷」と呼ばれるほどの急峻さを思わせる往時の面影はかなり薄れている。住宅地の奥にある野木神社は平安時代に創建された古社で、ここだけが往時の静寂さを伝えているかの様である。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.215540/139.708114/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:古戦場
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板橋城(茨城県つくばみらい市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7892.JPG←堀切跡の様に見える窪地
 板橋城は、牛久城主岡見氏の支城である。天正年間(1573~92年)後半に岡見治広が小田原北条氏に提出したとされる『岡見氏本知行等覚書』によれば、岡見氏の属城として、本拠の牛久城の他に東林寺城、谷田部城、足高城、板橋城があり、板橋城は岡見氏の家臣月岡上総介が城主であったと記載されている。史実不詳ながら、伝承では1587年に下妻城主多賀谷重経によって攻撃され、月岡氏は開城降伏したとされる。それ以外の歴史についても、伝承はあるが虚実不明であるため、ここには記載しない。

 板橋城は、小貝川・中通川水系の氾濫原に面した台地の縁に築かれている。板橋不動尊(不動院)から南西と西に伸びる台地を城域としていたらしく、おそらく板橋不動尊も外郭の中に取り込まれていたのだろう。城内は宅地化が進んでおり、遺構は湮滅している。僅かに土塁状の土盛りや堀状の窪地が散見されるに過ぎず、これらが遺構であるどうかもわからない。城跡より何より、板橋不動尊の伽藍が素晴らしく、そちらを主目的で行った方が良い。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.979204/140.049677/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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谷田部藩陣屋(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7874.JPG←貴重な遺構、陣屋玄関
 谷田部藩陣屋は、肥後熊本藩細川氏の分家が谷田部藩を立藩して築いた陣屋である。細川忠興の弟興元は、関ヶ原の戦い・大阪夏の陣に参戦し、その功により1616年、既に拝領していた下野茂木1万石に更に常陸谷田部を加増され、合計16,200石の大名となった。1619年、興元の子興昌は、藩庁を茂木から谷田部に移して、谷田部藩が成立し、陣屋を造営した。陣屋の北と東には堀を廻らし、内部には役所・藩主住居・文館・武館・馬場等があった。1844年に火災で消失し、その後再建された。幕末になると谷田部藩は財政危機に陥り、二宮尊徳の仕法により藩政改革を行った。250年9代に渡って存続し、そのまま明治維新を迎えた。

 谷田部藩陣屋は、谷田部城の北側、谷田川と西谷田川に挟まれた台地の北東角部に築かれている。現在陣屋跡の大半は谷田部小学校の校地となり、周辺も宅地化で改変されつくされているので、陣屋跡の面影は全く残っていない。しかし戦後間もなくの航空写真を見ると、明治初期に描かれた陣屋絵図の輪郭を、ほぼ追うことができる。尚、小学校の前に陣屋の玄関が移築されて残っている。小学校の中に「谷田部城址」という石碑があるらしいが、未見。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.034195/140.074632/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:陣屋
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谷田部城(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7857.JPG←八幡宮裏にある段差
 谷田部城は、小田城主小田氏の支城である。鎌倉後期に小田氏5代宗知の子、小田宗寿が谷田部に分封され、谷田部城を築いて谷田部氏の祖となったと言う。以後谷田部氏は、小田家中において一門六家に名を連ねる重臣となった。1549年に編纂された『小田家風記』には、谷田部城主として谷田部刑部少輔の名が見える。しかしその後、同じ小田氏の重臣で牛久城主岡見氏の管理下に入った様である。1570年、岡見頼忠が城主の時、下妻城主多賀谷政経・経伯兄弟の攻撃を受けて落城し、多賀谷経伯の居城となった(この時の谷田部城主は谷田部寿教だったとの説もあるが、その後の谷田部城奪還戦は岡見氏が主導しているので、岡見氏の属城になっていた可能性が高い)。1580年、北条氏照の支援を得た頼忠は、1千騎で谷田部城を攻撃し、多賀谷経伯・経明を激戦の末、追い詰めて自刃させた。しかし谷田部城は、再び多賀谷政経の子重経に攻撃され、頼忠は流れ矢を受けて討死し、重経が谷田部城主となって、渡辺越前守・平井手伊賀守ら25人を置いて支配した。1589年には、牛久城主岡見治広が谷田部城奪還を図ったが、不成功に終わった。1602年、佐竹氏が出羽秋田に移封となると、多賀谷氏も秋田へ移った。近世には、肥後熊本藩細川氏の分家が谷田部藩を立藩し、谷田部陣屋が置かれた。

 谷田部城は、谷田川と西谷田川に挟まれた台地上に築かれていたらしい。現在は宅地化で改変されつくされ、しかも近世には城の北側に陣屋が置かれて町割りがし直されたらしく、往時からは相当な改変を受けた模様で、具体的にどこに城があったのかも明確ではない。一応、八幡宮が建っているのが往時の主郭とされている。江戸時代に描かれた古絵図が残っているが、現在の道路配置にも縄張りの名残を見ることができず、戦後の航空写真でも既に塁線がわからないので、実際にどこまでが城域だったのかも含め、不明点が多い城である。しかし遺構不明ながらも、二の丸という地名はあるし、歩いて回ると堀状地形や切岸地形があり、何となくこれが城跡かなという雰囲気は感じられる。

 尚、谷田部城は、その位置だけでなく歴史にも不明点が多く、小田氏支配時代の城主が谷田部氏だったのか、岡見氏だったのかについても、必ずしも明確ではないことを付記しておく。
二の丸地区にある堀状の畑→IMG_7860.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.031696/140.077701/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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戸崎城(茨城県かすみがうら市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7811.JPG←主郭の堀切跡
 戸崎城は、小田城主小田氏の支城である。現地解説板によれば、応仁の乱(1467~77年)の頃に小田氏の有力家臣の戸崎大膳亮によって築かれたのではないかと言われている。その後、1573年に佐竹氏の攻撃により、宍倉城と共に落城した。一説ではその後、1577年に戸崎城奪回の戦いがあり、大膳はその戦いで討死したとも伝えられる。一方、古文書によれば小田氏重臣の菅谷一族の城と伝えられ、1564年頃に上杉謙信が小田氏の主要城郭を書き上げた「小田氏治味方地利覚書」には菅谷次郎左衛門が城主と見え、1590年の「毛利家文書」でも「外崎 菅屋上総守」とあることから、戸崎菅谷氏の城として存続していたらしい(おそらく戸崎菅谷氏=戸崎氏なのであろう)。もっとも戦国末期には小田氏は佐竹氏に降っているので、佐竹氏の属城となっていたと思われる。1595年には、戸崎城は佐竹氏家臣の飯塚兵部少輔が管理するところとなった。1602年に佐竹氏が出羽秋田に移封となると、戸崎城は廃城となった。

 戸崎城は、霞ヶ浦北方の台地上に築かれている。台地上の広範囲を城域に取り込んだ城で、北の突出部に主郭、堀切を挟んでその南に二ノ郭、更に堀切を介して「中城」と呼ばれる三ノ郭、その背後に「外城」と呼ばれる広大な外郭を配置していた。現在は三ノ郭・外郭は宅地化が進み、旧状を推し量るのは難しいが、台地の縁に腰曲輪らしい平場が散見される。主郭・二ノ郭は畑になっているが、いずれも背後の堀切跡が畑に変貌しつつも明瞭に残っている。また主郭周囲には一段低く腰曲輪が取り巻いているのもはっきりと分かる。この他に、外郭の東端に「山崎出城」と仮称される出城があるようだが、今回は夏場の訪城であったため、未見である。宅地化の進んだ城にしては、主郭・二ノ郭だけとは言え、旧状をよく残している城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.080459/140.273159/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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三村城(茨城県石岡市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7778.JPG←三ノ郭西側の横堀
 三村城は、大掾氏の支城である。伝承によれば、府中城主大掾慶幹の次男常春が府中城南方の防衛のために築いたとされ、1574年に小田氏に攻められて落城し、城主常春も討死したと言う。

 三村城は、恋瀬川南の丘陵上に築かれた城である。普門寺のある丘陵中心部から各方向に派生した台地に曲輪を築いた城であったらしく、現地解説板によれば三村小学校の部分が主郭、普門寺のあるのが二ノ郭、その西側のふれあいセンターがある南北に伸びた丘陵は三ノ郭とされる。いずれの曲輪も宅地化で改変され尽くしているが、地勢は残っており、腰曲輪らしい平場や切岸状地形は多数城域内に確認できる。明確な遺構としては、三ノ郭西側の山林内に横堀と土塁が延々と残っている程度である。この城は、あまり期待しないで何かの寄り道で行く程度であろう。
 尚、三村城主常春の墓が、JR常磐線の東側の丘陵中腹にひっそりと残っているが、全く目印がなく場所が相当にわかりにくい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.152413/140.281441/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
     【三村城主常春の墓】
     http://maps.gsi.go.jp/#16/36.149467/140.286763/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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小原城(茨城県笠間市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_7690.JPG←北西辺縁部に残る土塁と空堀
 小原城は、宍戸城の北東を守る支城である。築城年代は明らかではないが、里見氏が1492年に小原に領地を得、1502年に里見七郎義俊が小原城を構築したと、現地解説板に記載されている。一方、『日本城郭大系』では、1336年に里見義俊が奥州よりこの地に入部したのが小原城の初めだと記載されている。同じ里見氏について、これほど時代の差のある伝承があるというのも面白いが、名乗りから考えれば新田氏の一族里見氏の一流であろうから、何らかの経緯で常陸宍戸氏と関係を持ち、この地に入部したものであろう。詳細については今後の考究に待ちたい。

 小原城は、涸沼前川の北岸に位置する低台地上に築かれた城である。方形の主郭を中心に梯郭式に近い縄張りをしていた様である。主郭は、御城稲荷神社と集会所の建っている一帯で、内部は公園となっているが、西から北にかけて大土塁が残り、南もかなり土塁が削られているものの段差が残っていて、ほぼその形状を追うことができる。主郭周囲は水堀で囲まれていたが、環境整備(おそらくヤブ蚊の発生地となっていたのだろう)の為に25年前に埋められたらしい。二ノ郭・三ノ郭は耕地化・宅地化でかなり湮滅しており、曲輪の形状を追うのも難しいが、北西辺縁部の土塁・空堀と北辺の土塁が残っている。この他、東辺縁部にも土塁・空堀が残っているらしいが、周囲を民家で囲まれているため接近できず、未確認である。この手の平城にしては、立派な土塁遺構が見所の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.361690/140.322983/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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