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桝形城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2286.JPG←虎口の櫓台、左側は竪堀
 桝形城は、歴史不詳の城である。周囲の山々には旭山城・葛山城大峰城・若槻山城等があることから、武田・上杉両氏の川中島における攻防に関わった城と推測されている。一説には、1557年の武田勢による葛山城攻撃の際に、武田軍がこの付近に陣を張ったとも言われ、それとの関連も指摘されている。

 桝形城は、地附山北東の標高706mの小ピークに築かれた城である。すぐ南を戸隠バードラインという道路が通っているのだが、昭和60年に発生した地附山の地滑りで廃道となっており、大峰山の閉ざされたゲートから延々と歩かないと城まで到達することができない。しかし城自体はハイキングコースとして現在でも整備されている。大きな主郭と、その南の谷戸を挟んで高台となった横長の二ノ郭から成る、比較的小規模な城だが、構造はかなり複雑である。まず二ノ郭は南側を空堀で分断しているが、幾重にも塁線を折れ曲げて横矢を掛けた構造で、二ノ郭自体も南側を土塁で囲んで防衛しており、この付近では類例の少ない造りである。主郭との間の谷戸には中間に低土塁が築かれ、斜面に手を加えて堀切としているが、あまり鋭さはない。一方、主郭周囲は複雑で、谷戸から主郭に至る虎口は横堀・竪堀を複雑に組み合わせて幾重にも折れ曲げた動線とし櫓台も築いている。また西側の横堀北端をほぼ直角に曲げて竪堀で落とすなどの技法も見られる。主郭の北斜面にも腰曲輪があり、その下方にも竪堀状虎口で繋がった曲輪群が広がっている。以上の様に、桝形城は規模の小さな城であるが、かなり技巧的な築城技術が投入されていて見応えがある。
 尚、信州の城巡りには欠かせない宮坂武男氏の縄張図であるが、結構遺構の見落としが多いことに気付いた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.681808/138.189425/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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大峰城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_2078.JPG←堀切から直角に落ちる竪堀
 大峰城は、歴史不詳の城である。伝承では大峰某の居城であったと言われるが、この大峰氏についても、葛山城主落合備中守の家臣大峰蔵人とか、村上氏幕下の大嶺大内蔵など諸説ある。いずれにしても有力な説としては、葛山城と同じく武田方の旭山城に対する向城として上杉方が築いた山城とされ、両者による川中島合戦に際して上杉方の城砦の一つとして利用されたものと考えられている。

 大峰城は、葛山城の北東にそびえる標高828mの大峰山に築かれている。主郭には模擬天守(現在は閉鎖)が建ち、車道が整備されているので、簡単に登ることができる。幸いなことに破壊は主郭のみに限定されており、その他の遺構はほぼ完存している。主要な曲輪は4つあり、尾根の南東端に主郭、その南側に一段下がって二ノ郭、主郭の北西の尾根筋にそれぞれ堀切を介して三ノ郭・四ノ郭が続いている。主郭は北と西の2面に土塁が残っているが、模擬天守建設のためどこまで遺構を残しているかは不明。特に二ノ郭からの登り道は相当改変されている様に感じられる。主郭の北側斜面には2段の腰曲輪があり、腰曲輪間の斜面にはあまりはっきりしないが竪堀群があるとされている。この腰曲輪はいずれも主郭背後の堀切に通じており、特に上段の腰曲輪では堀切に向かって虎口を設けていて、城内通路を兼ねた堀であったことがわかる。これと段をズラした形で堀切の向かいに三ノ郭北側の腰曲輪が築かれている。一方、駐車場となった二ノ郭の南側にも土塁を備えた腰曲輪があり、その下方は大きな堀切で南に降る尾根を分断している。この堀切は、西側で直角に折れ曲がって竪堀となって落ちている。堀切の前面にも幾重にも腰曲輪群が築かれている。これら以外に、大峰城には北の830mの円丘状のピークに給水施設が建った外郭があり、斜面を横に走る横堀が北西と南東に数本穿たれている。大峰城は、堀切から落ちる長い竪堀が特徴であるが、葛山城などと比べると小じんまりした印象で、後方支援的な使われ方をしたのではないかと思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.675544/138.176765/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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郷路山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1999.JPG←L字状の土塁
 郷路山城は、葛山城の出城である。葛山城から南東に伸びる尾根の先の広い緩斜面(郷路山)に築かれている。はっきりした遺構としては葛山城との間を分断する尾根上の堀切と、緩斜面に築かれたL字の土塁と空堀だけである。頼朝山砦と同じくささやかな規模の遺構であるが、土塁で区画した平場があることから、物見や監視の砦というよりは兵糧などの倉が置かれたのではないだろうか。位置的に上杉謙信が本陣を置いた横山城と葛山城を結ぶ直線上に位置していることから、武田方に奪われない様に軍需物資を山上に蓄積したのではないかと、個人的に推測している。
 尚、郷路山城の名は『軍事分析 戦国の城』(学研)に記載されているので、それに依拠した。宮坂武男氏の『信濃の山城と館』では葛山城の一郭として縄張図に記載している。位置的にも葛山城からの独立性が高いことから、郷路山城として取り扱った。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.667421/138.173397/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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葛山城(長野県長野市) [古城めぐり(長野)]

IMG_1748.JPG←主郭~二ノ郭間の二重堀切
 葛山城は、越後の上杉謙信が第2次川中島合戦の対陣の際に築いた巨大城郭である。元は葛山衆と呼ばれる在地土豪落合氏の城砦があったと考えられている。1555年、前年に甲相駿三国同盟を成立させて後顧の憂いをなくした甲斐の武田信玄(当時は晴信)は、信濃国善光寺の別当栗田氏の内部分裂を利用して栗田永寿を調略し、善光寺平の南半分を武田氏の勢力下に置いた。これを受けて上杉謙信(当時は長尾景虎)は4月に善光寺平奪回の為に出陣し、横山城に本陣を置いた。一方武田方は3000の増援兵と共に旭山城に立て籠もり、信玄も旭山城の後詰として川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙した。謙信は、旭山城の動きを封殺するため、旭山城の目と鼻の先にある葛山城を整備・拡大して、落合備中守一族や小田切駿河守幸長らを籠らせた。その効果は絶大で、旭山城は動きを封じられ、旭山城・葛山城の対峙が両軍の作戦計画を大いに掣肘し、両軍共に膠着状態となって、200日に渡る長期対陣となった。この間、両軍共に兵站や士気の低下に苦しみ、駿河の今川義元の仲介で和睦した。この和睦は、武田方の旭山城の破却、上杉氏を頼った北信の国人衆の本領復帰など、特に兵糧確保に苦しんだ武田方に不利なものであったが、信玄はこれを守る気はなく、翌年から水面下で上杉方の切り崩しを図った。その上で1557年2月、雪で上杉勢が出陣できない時期を見計らい、信玄は馬場美濃守信房に命じて大軍で葛山城を急襲させた。武田勢は水の手を断ち、城に火をかけて落城させた。城主落合備中守・小田切駿河守らは奮戦したが、葛山衆の城兵もろとも討死した。上杉方の島津月下斎らは大倉城に撤退した。降伏した葛山衆は、武田氏によって再編成され、長沼城の管理下に置かれた。

 葛山城は、善光寺北西の山塊にそびえる標高812m、比高412mの葛山に築かれている。両雄の激突を制した城だけあって、広大な城域を有した巨大な山城である。城域の中心に主郭を置き、その西側に二重堀切を介して二ノ郭、更に一段低く三ノ郭がある。二ノ郭は更に中間に小掘切を穿って2段に分かれ、三ノ郭も2段の平場に分かれている。二ノ郭・三ノ郭の北側斜面には帯曲輪が何段も築かれている。三ノ郭西側の尾根筋にも段曲輪群が延々と築かれており、ざっと数えたところ、少なくとも19段以上の段曲輪が確認でき、下方に1ヶ所小掘切も穿たれている。一方、主郭の北に伸びる尾根にも曲輪群が延々と連なり、途中堀切や横堀で防御されている。最北の北出曲輪は二重堀切の先にあり、三段ほどに区画された細長い曲輪で、城内で最も広い面積を有し、櫓台らしい土壇も残っている。主郭の東側の尾根は、この城の最も特徴的な空間で、二重堀切を介して東側の広い尾根を切り刻んだ畝状阻塞(連続空堀)が構築されている。笹藪でわかりにくい部分もあるが、6~7本の堀か穿たれている。類似した例は上野松井田城にも見られる。普通には、東尾根からの武田勢の接近を阻止する塹壕であったと解されているが、武田氏による破城の跡とする意見もある。その東に腰曲輪があり、北東の尾根に堀切や竪土塁などの遺構があるらしいが、藪がひどく確認できない。腰曲輪の東の尾根は山道が通っており数本の堀切や竪土塁、腰曲輪などが構築されている。この他、前述の畝状阻塞の南斜面には、多数の帯曲輪や竪堀郡が築かれていて、葛山への登り道から見ることができる。途中には竪堀と連携した木戸口もある。尚、葛山城の曲輪には東の腰曲輪を除き、全く土塁が築かれていないのも特徴的である。
 伝わっている歴史からすると、葛山城はこれらの遺構の大部分を武田勢との対陣の中で短期間に構築したものと推測され、敵前築城の勢いの凄さを思い知らされる。
東尾根の畝状阻塞→IMG_1897.JPG
IMG_1676.JPG←南斜面の竪堀群
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.670966/138.166659/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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頼朝山砦(長野県長野市)

IMG_1658.JPG←腰曲輪から見た主郭
 頼朝山砦は、葛山城の出城である。歴史等は伝わっていないが、葛山城の南の支尾根の先端に位置し、目の前には武田信玄が築城した旭山城がそびえていることから、旭山城に拠る武田方の動向を監視すると同時に南を通過する間道を押さえる役目を負っていたことは疑いがない。

 頼朝山砦は、葛山城の南の支尾根の先端部、標高644.4mの頼朝山に築かれた小城砦である。頼朝山の名は、1197年に源頼朝が善光寺に参詣した際に、静松寺に田地山林を寄進したことに因むと言う。ほぼ単郭に近い小規模な砦で、ほぼ方形の主郭には八幡社が鎮座している。主郭の周りは高さ1.5m程の切岸で区画された腰曲輪が取り巻いている。葛山城に繋がる北尾根に細尾根上の曲輪が繋がり、ささやかな規模の堀切を介して北斜面上の段曲輪に至り、尾根の鞍部を堀切状に加工している。いずれにしても普請はささやかなもので、あくまで旭山城を拠点に葛山城を南方から攻撃する武田勢を監視する砦としてのみ機能したことを伺わせる。
眼前にそびえる旭山城→IMG_1655.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.664667/138.167260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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山入城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1429.JPG←櫓台を備えた主郭
 山入城は、佐竹氏の有力支族山入氏の居城である。元々は、南北朝時代に西野民部大夫温通が初めて築いたと言われる。その後、南北朝の抗争の中で、佐竹貞義は終始一貫して足利方に従って常陸南朝勢力討伐に軍功を挙げて常陸守護となり、その7男師義は直接足方尊氏の軍勢に従って九州落ちにまで従い、筑前多々良浜の合戦、摂津湊川の合戦等に功を挙げた。また師義は、足利家の内訌、観応の擾乱でも尊氏に従い、尊氏から常陸国山入を所領として与えられて山入氏を称し、山入城を修築して本拠とした。(個人的な推測だが、師義の「師」の字は将軍執事であった高師直の偏諱ではないだろうか。もしそうだとすれば、師義は師直率いる幕府直轄軍に属していたことになろう。)師義は、観応の擾乱の中で摂津で討死したとされるが、異説もある。師義が死ぬと、その子与義が跡を継ぎ、室町将軍直轄の「京都扶持衆」に列し、鎌倉公方に属する常陸守護の佐竹宗家に比肩する、半ば独立する勢力を有した。1407年、佐竹氏12代義盛が嗣子なく没すると、鎌倉公方足利持氏の干渉による関東管領上杉氏からの入嗣を巡って、山入与義は同族の長倉氏・額田氏らと山入一揆を結成して反発し、翌年、長倉義景が長倉城で挙兵して、ついに佐竹家中を二分する武力抗争に発展した。「山入の乱」の始まりである。その後、一旦鎮圧されたが、上杉氏から入嗣した佐竹義憲に対し、山入氏らは事々に反発し、1416年に上杉禅秀の乱が発生すると、山入一揆は禅秀方に味方した。しかし翌年乱は鎮圧され、18年には山入与義が拠る山入城は義憲の軍に攻め落とされ、与義は降伏した。乱はこうして鎮圧されたものの、鎌倉公方の独走に危惧を抱く室町幕府は、山入氏を常陸守護に任じ、佐竹義憲がこれに抗議して、佐竹氏と山入氏とが半国守護として並び立つこととなった。幕府の後援を背景に山入氏は佐竹宗家に対抗しうる勢力を有し、山入の乱は100年にも渡って続くこととなった。1477年、勢力を盛り返した山入義知は、佐竹義武(佐竹氏14代義治の子)が守る久米城を攻め落とした。しかし佐竹義治は直ちに軍を率いて久米城を奪還し、義知を敗死させた。義知の討死後、その弟義真は山入氏の領土を固めると共に佐竹宗家との対立を継続し、1490年、義真の子義藤・孫の氏義父子は、義治が死去して佐竹氏当主を継いだばかりの義舜を攻めて、佐竹宗家の本拠である常陸太田城を占拠して居城を移し、山入城には天神林義益を置いた。義舜は外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。氏義は山入城に撤退して抵抗を続けたが、1506年に山入城は落城し、氏義は子の義盛と共に捕らえられ、下野国茂木で殺害された。こうして、佐竹氏を動揺させ続けた山入の乱はようやく収束した。

 山入城は、山田川西岸にそびえる標高185.3m、比高145mの要害山に築かれている。南東から山道が整備されており、城内まで車で突入できるので登城は楽である。純然たる連郭式山城の縄張りで、山頂に大きな櫓台を備えた主郭を置き、南西に伸びる尾根に二ノ郭以下の主要な曲輪群を連ねている。途中、『図説 茨城の城郭』の縄張図で言うⅣ郭の前後のみ、堀切で分断されているが、それ以外は切岸のみで区画されている。曲輪の削平はいずれもしっかりしている。Ⅳ郭の南東斜面にも平場群(Ⅴ郭群)が残っており、現地に設置された城の想像図では、前述の主郭を「詰の城」、Ⅴ郭群を「本城」としている。Ⅴ郭群も遺構がよく残っており、切岸で区画された曲輪が明瞭で、曲輪同士を繋ぐ城道もはっきりしている。これら以外に、Ⅱ郭の南西尾根にも小掘切を穿った段曲輪群、また主郭背後の北の細尾根にも3条の堀切と若干の平場がある。
 山入城にはもう一つ、主城から東に伸びる支尾根に東曲輪群があり、主城とは切り離された独立性の高い出城として機能していたと思われる。東曲輪群は、Ⅳ郭から東曲輪群先端近くにある日吉神社への山道がそのまま遺構群巡りをする道になっており、尾根上に多数の平場や数本の堀切、土壇などが確認できる。
 山入城は城域が広く、さすがは佐竹一族で強勢を誇った山入氏の本拠であるが、その割には城自体は普通の出来である。技巧性のあまり高くない普請から考えると、戦国初期に山入氏が滅亡してからは、ほとんど顧みられることがなかったことが想像される。尚、城内は一応公園として整備されているが、Ⅱ郭など冬でも草茫々の部分も多い。
東曲輪群の堀切→IMG_1565.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.599732/140.478637/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=airphoto&vs=c1j0l0u0f0
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金砂山城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1370.JPG←本殿の建つ岩山
 金砂山城は、佐竹氏の居城常陸太田城の詰城に相当するような城であった。1180年、坂東の武士団を傘下に収めた源頼朝は鎌倉を制圧したが、常陸の佐竹氏は頼朝に帰順せず抵抗していた。富士川の合戦で平家の追討軍を退けた頼朝は、上総介広常らの意見を容れ、同年11月4日、佐竹氏を討伐した。この時佐竹氏3代秀義は、本城の常陸太田城を捨てて、天険の要害、西金砂山に金砂山城を構えて立て籠もり、応戦した。頼朝は数千の大軍で攻撃したが、金砂山城の天険に苦戦し、上総介広常の策により秀義の叔父佐竹蔵人義季を内応させ、搦手に当たる諸沢口から密かに攻城軍を案内させた。不意を突かれて金砂山城は落城し、秀義は花園山に逃れた。頼朝は、佐竹氏の所領を没収して部下の論功行賞に充てたが、後の1189年に佐竹秀義は頼朝に降伏し、御家人に列して、常陸北部の旧領の領有を認められた。しかし鎌倉時代を通して、佐竹氏は不遇の時代を過ごすこととなった。南北朝時代になると、佐竹貞義は終始一貫して足利尊氏に従って北朝方として常陸南朝方と交戦し、再びこの金砂山城の天険に頼って籠城戦を展開した。北朝方に与した結果、佐竹氏は常陸守護職を与えられ、鎌倉時代の不遇から一転、大きく勢力を伸ばすこととなった。室町時代中期に生起した佐竹一族の内訌「山入の乱」では、佐竹氏の当主義舜は1490年、山入氏義に居城の常陸太田城を逐われて、外祖父の大山義長を頼って大山城に逃れ、義長は義舜を孫根城に匿った。義舜は10年もの間孫根城に居たが、1500年、山入氏義は孫根城を攻め、義舜は金砂山城に逃れて抵抗した。2年後、金砂山城の戦いに勝利した義舜は勢力を盛り返し、常陸太田城を奪還して復帰した。こうして3度に渡って危急存亡の縁に立たされた佐竹氏を救った金砂山は、佐竹氏開運の山として崇敬された。

 金砂山城は、西金砂神社の境内がそのまま城となっている。神社登り口の前にある方形の高台(現在は畑地)が館跡とされ、その東側にそびえる山は物見台であったらしいが、明確に削平された様子がなく、遺構かどうかよくわからない。また神社の本殿のある山もほとんど自然地形の岩山で、断崖に囲まれた地形そのままで遺構は不明瞭である。参道脇に物見台跡らしい地形が散見される程度である。残念ながら城郭遺構としては見るべきものは少ないが、佐竹氏開運の神社ということでお参りするつもりで行くのが良いかもしれない。
館跡とされる高台→IMG_1387.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.657196/140.451086/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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武生城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1265.JPG←主郭
 武生(たきゅう)城は、南北朝時代に佐竹氏が拠った山城である。元々は鎌倉時代に国井経義という武士による築城とされるが、詳細は不明。南北朝時代になると、北朝方の佐竹貞義は、南朝方と戦い敗れて、貞義は金砂山城に籠もり、子の義篤らは武生城に立て籠もったと言われている(この時の合戦を常陸甕の原合戦としているものがあるが、実在自体が不明の合戦であることを付記しておく)。1336年、楠木正成の一族で代官として常陸に下向した楠木正家は、瓜連城に入って常陸南朝勢力を糾合すると、佐竹義篤は武生城から出撃して南下し、瓜連城を攻撃したと言う。

 武生城は、竜神湖の北側にそびえる標高340m、比高220mの山上に築かれている。東南東の尾根筋に登り道が付いており、迷うことなく登ることができる。山頂に主郭を置き、北斜面に腰曲輪、また主郭の北西に二ノ郭・三ノ郭を腰曲輪状に並べており、いずれの曲輪も切岸だけで区画されている。あまり遺構に期待はしていなかったが、主郭の削平は明瞭で、腰曲輪もはっきりしている。主郭後部は細尾根状となり、そこから北側に二ノ郭・三ノ郭が僅かな段差で広がっている。三ノ郭の北には細尾根が伸び、先端に物見台がある。一方、主郭の手前に当たる東側にも四ノ郭があり、わずかな堀切が見られ、南東の尾根端部にやはり物見台の岩場があり、眼下に竜神大吊橋を望むことができる。これらの他にも登り道の途中に幾つかの腰曲輪が見られ、城域はかなり広かった可能性が考えられる。城の形態としては、いかにも高所の要害性だけを頼りとした南北朝時代の山城という趣で、古い形態を留めている。尚、しばらく茨城や千葉の段丘上の城が多かったため、久しぶりの比高200m級山城はすごく疲れて、少々足に来た。
四ノ郭の堀切→IMG_1257.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.687366/140.464175/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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羽黒山城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1168.JPG←主郭背後の堀切
 羽黒山城は、小里城の詰城である。小里城南方の比高60mの丘陵上に築かれており、山頂の主郭には羽黒神社が鎮座していて、西側から登り道が整備されているので、簡単に登ることができる。神社周囲には土塁が見られるが、これは主郭塁線と関係なく構築されていることから、後世の改変であろう。主郭の北から西にかけての周囲には腰曲輪が廻らされ、南側は大手だったらしく、手前に大きな土壇が築かれて警戒の物見となっていたらしい。神社手前が2段の平場になり、更に南西尾根に沿って幾つかの平場に分かれている様で、これらはかつての腰曲輪だったのだろう。この城で最もはっきりした遺構は、主郭東側の堀切で、規模はそれほど大きくないが東出曲輪に通じる土橋が架かり、北斜面に落ちる竪堀沿いに竪土塁も構築されている。東出曲輪は自然地形に近く、どこまでが城域かは判然としない。遺構としては以上で、盾の台楯よりは大きく普請もしっかりしているが、主城である小里城共々、ささやかな規模の城砦である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.749424/140.493786/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世山城
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盾の台楯(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_1099.JPG←腰曲輪から見た主郭切岸
 盾の台楯は、小里城の防衛のために築かれた詰城と考えられている。東側の山地から西に張り出した比高30m程の細長い丘陵城に築かれている。ほぼ単郭の小規模な山城で、東西に細長いほぼ長方形の主郭とその西側の一段低い腰曲輪で構成されている。その西側斜面はほとんど自然地形で、明確な普請はあまり見られない。一方、東の台地基部は主郭より一段低い平場となり、その東に板碑などが建てられた土壇があり、その背後を林道が貫通している。もしかしたら、物見台と堀切だったのかもしれない。この他、主郭の南側斜面にも幾つかの腰曲輪らしい平場が見られる。いずれにしても大した普請がされておらず、守備兵を少々籠めただけの小規模な城であったろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.757711/140.491340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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