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師山城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8631.JPG←主郭北東角の隅櫓の張り出し
 師山城は、大崎氏の重臣渋谷弥三郎の居城と伝えられている。一説には、大崎氏2代直持が師山城を居城として勢力を拡大したとも言われる。1534年、大崎氏家中で「天文の内乱」が生起し、新田安芸頼遠が中新田・高木・黒沢氏らと共に主君大崎義直に反旗を翻すと、義直は自力で叛乱を鎮圧できず、伊達稙宗に援軍を仰いだ。請いを容れて大崎領内に進軍した稙宗は、師山城を拠点として反義直勢力の拠点古川城を攻撃したと言う。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景を総大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、対する大崎方は中新田城・桑折城・師山城の備えを固めて伊達勢に抵抗した。結局攻めあぐねた伊達勢は、天候の急変(大雪)を受けて大敗した。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 師山城は、城山と呼ばれる微高地にあった。周囲を小河川の流れる低湿地帯に囲まれ、そこに半島状に突き出した低台地を利用した城であったと推測され、標柱の東にある段々の高台となった畑地は主郭の遺構と思われる。昭和20年代の航空写真と見比べると、現在とほとんど地形が変化していないので、おそらく往時の形状をかなり留めていると思われる。主郭の周囲には腰曲輪の他、隅櫓の張出しまで確認できる。主郭に繋がる台地基部ももちろん城域だったと思われるが、そちらは現在は宅地化で改変され、遺構は確認できない様である。遺構として明瞭なのは主郭部だけであるが、往時の雰囲気は感じられる。
主郭南西部の湾曲する塁線→IMG_8652.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.544708/140.977356/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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新沼城(宮城県大崎市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8594.JPG←主郭跡とされる稲荷神社
 新沼城は、大崎氏の家臣遠藤掃部と上野甲斐の居城と伝えられている。1588年、大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。留守政景を総大将とする伊達勢は大崎領深く侵攻し、中新田城を包囲攻撃したが、守将南条下総守の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。大敗した伊達勢は退路を失い、泉田重光率いる残兵は命からがら新沼城に逃げ込んで籠城した。結局、泉田重光・長江月監斎両将を人質に出すことで、大崎氏と伊達氏の和議が成立し、新沼城に孤立していた伊達勢は引き揚げを認められたと言う。その後の城の歴史は不明であるが、1590年の大崎氏の改易によって廃城となったのだろう。

 新沼城は、東北道のすぐ西にある下沖集落に位置している。集落中央付近の畑地の中に建つ稲荷神社付近が主郭とされ、その周辺の東西120m、南北100m程の範囲に主郭が拡がっていたとされる。城内は宅地や耕地に変貌して、遺構は完全に湮滅している。主郭付近はわずかに微高地となっているが、改変が激しく輪郭もはっきりしない。辛うじて堀跡と思われる水路が残っているだけである。稲荷神社脇に城址標柱がなければ、誰もここが城跡とは思わないであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.540278/140.926867/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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中新田城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8588.JPG←神社裏に僅かに残る主郭土塁
 中新田城は、奥州探題大崎氏の居城の一つとされている。大崎氏の事績については名生城の項に記載する。斯波家兼が奥州管領(後の奥州探題)となって奥州に下向し、最初に居城としたのが中新田城とも言われている(一説には師山城が最初とも)。その後大崎氏は居城を幾度か移したと見られ、12代大崎義直と13代義隆が中新田城を居城としたとされている。しかし義隆の時に名生城に居城を移したと言われ、その後は家臣南条下総守が城代として居城したと言う。1588年に大崎氏家中の内紛を機に伊達政宗による武力介入を許し、大崎合戦となった。南条下総守は中新田城に籠城し、留守政景を総大将とする伊達勢を迎え撃った。伊達勢は中新田城を包囲したが、南条氏の巧みな用兵と堅守によって落とすことができず、折からの大雪によって伊達勢は撤退を余儀なくされた。これを見た南条氏は城から打って出て、殿を務めた侍大将小山田筑前を討ち取った。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置によって、大崎氏は小田原不参の故を以って改易され、中新田城は廃城となった。藩政時代には2代仙台藩主伊達忠宗が領内巡察の際、城址に仮り舎を設けたことから「御仮屋」と呼ばれた。

 中新田城は、加美町市街北東の国道347号線と457号線が接続する交差点を中心とする一帯にあった。昭和20年代の航空写真を見ると、方形の主郭とその周りの堀跡が確認でき、更に外郭東側の外堀跡も明瞭であるが、現在はほとんど完全に湮滅している。残っているのは、多川稲荷神社の裏の主郭南東角の土塁と北側の外堀跡の水路ぐらいである。つい数年前まで主郭堀跡も低い畑になっていたようだが、それも現在では宅地となってしまっている。ほとんど城跡らしさを残さず、壊滅してしまっているのは残念でならない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.573703/140.859854/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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狼塚城(宮城県加美町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8543.JPG←西辺部の土塁と堀跡
 狼塚城は、上狼塚館とも呼ばれ、大崎氏四家老の一人里見紀伊守隆成の居城である。紀伊守の名は大崎合戦でも現れており、斜陽の大崎氏を支えた武将の一人であった様である。
 狼塚城は、慈恩院の北側に築かれている。低地帯に浮かぶ微高地にあり、城内は宅地化が進んでいるが、城の西辺部は最もよく遺構を残しており、林の縁に土塁と堀跡が確認できる。どこかに城址標柱もあるらしいのだが、発見できなかった。尚、慈恩院には里見紀伊守の墓が建っているが、本当の墓は本堂の須弥壇の下にあると言う。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.579155/140.869639/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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茂ヶ崎城(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8493.JPG←竪堀と推測される地形
 茂ヶ崎城は、名取郡北方三十三郷の旗頭と呼ばれた粟野氏の居城と伝えられている。粟野氏は、元々越前を本拠としていたが、1342年に粟野藤三郎駿河守重直が軍功によって、足利尊氏から名取郡2千余貫を賜り、翌年茂ヶ崎城を築いて居を構えたとされる。その後6代国定は、文明年間(1469~86年)に伊達成宗と争い、敗れてその支配下に入った。粟野氏は北目城や沖野城を支城に持ち、一説には戦国後期には粟野氏の本城は北目城に移っていたとも言われる。伊達政宗時代の当主は大膳太夫重国で、伊達氏の重臣として活躍したが、1591年に政宗に抗したらしく、城を逐われ、重国は失意のうちに1623年に死去したと伝わっている。江戸時代には、城跡に仙台藩主4代伊達綱村によって大年寺が建立され、また無尽燈廟・宝華林廟の2つの墓所が造営されたため、多くの改変を受けた。

 茂ヶ崎城は、標高120m程の大年寺山に築かれている。前述の通り江戸時代に大きな改変を受けたため、どのような縄張りの城だったかはあまりわかっていない。東麓から大年寺の参道が伸びているが、途中に千人溜と呼ばれる平場がある。また参道から脇に伸びる小道を南に進むと、山腹を貫通する竪堀状の地形が見られるが、山上の堀状地形から伸びていることから推測して、遺構ではないかと推察される。遺跡調査報告書によれば、主郭は仙台放送のアンテナの建つ丘陵最高所にあったと推測され、その前後に空堀が残っているらしいが、未確認である。その他は丘陵上の改変が激しく、遺構は失われている。少々山容が大き過ぎ、前述の通り丘陵最高所が主郭であったとすると、かなり大型の山城ということになってしまい、粟野氏の勢力から考えるとやや疑問に思う。もう少し小型の城であったと推測するのが普通と思うが、現況と合わず謎が多い城である。
 尚、伊達氏の墓所の内、無尽燈廟は公開されているが、宝華林廟は未公開となっており、塀越しに僅かに望むことしかできない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.237371/140.873029/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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富沢館(宮城県仙台市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8475.JPG←主郭の堀と土塁(ブルーシート部)
 富沢館は、この地の土豪山岸氏の居館であったと推測されている。史書には、天文年間(1532~54)に山岸肥前宗成が富沢邑に居住していたとされ、戦国時代に山岸氏の支配する村であったことが伝えられている。江戸時代には、入生田氏が富沢館に在郷屋敷を構えた。入生田氏の祖は清康で、その子元康は1636年に伊達政宗に殉死した。その後も、仙台藩士入生田氏の居館として続いた。

 富沢館は、環郭式の平城形式の居館である。新笊川をそのまま外堀に取り入れて、その南岸に築かれている。土塁と堀で囲まれた主郭の周囲に、外郭をぐるりと廻らしていた。ここ2~3年で、区画整理事業のために発掘調査が実施され、外郭は既に整地の重機類によって蹂躙されている。主郭は、半年前には辛うじて西側土塁と堀が、ブルーシートを掛けられたまま残っていたが、現在はどうなってしまったかわからない。既に全面的に破壊されているかもしれない。いずれにしても昭和20年代後半の航空写真ではきれいに残っていた環郭式の平城は、今や開発で風前の灯である。何とか保護の手立てを講じられなかったのかと悔やまれる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.214632/140.861464/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平城
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川崎城(宮城県川崎町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8457.JPG←二ノ丸の土塁と堀切跡の林道
 川崎城は、前川城とも呼ばれ、また藩政時代には川崎要害と呼称され、伊達21要害の一である。この地を領していた中ノ内城(前川本城)主砂金実常が、新たな拠点として1608~10年にかけて築城した。実常は大阪夏の陣に従軍して25貫加増され、伊達家一族の家格に列せられた。以後、砂金氏4代約90年に渡る居城となったが、砂金重常が1702年に病没すると、無嗣断絶となった。同年、宮床伊達氏の当主伊達村興が川崎要害に入り、20年間居住したが、1722年に再び宮床に戻った。同年、伊達綱宗の孫村詮が2000石で川崎要害を与えられて城主となり、伊達一門に列して川崎伊達家を創始した。そのまま川崎伊達家の居城として幕末まで存続した。

 川崎城は、北川の南岸に東西に連なる、比高20m程の丘陵西端部に築かれている。かなり単純な縄張りの城で、東西2郭から成り、先端に当たる西側が本丸で城主の居館があり、東側が二ノ丸で家中屋敷を置いていた。現在本丸は公園となり、二ノ丸は川崎小学校の校地と畑に変貌しており、遺構は湮滅が進んでいる。各曲輪は以前は土塁で囲繞されており、本丸東側の土塁の内側には空堀もあったとされるが、本丸については土塁も空堀も現在では全くわからなくなってしまっている。一方、二ノ丸も改変が進んでいるものの、畑となった東半分は遺構が残存し、城域東端の堀切が林道となって残り、この林道沿いに二ノ丸東辺の土塁がよく残っている。わずかながらも遺構が残り、地勢も往時のままなので、城の雰囲気は感じられる。また城の南方の市街地を貫通する道路には、城下町特有の鉤の手も残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.179320/140.645385/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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兵糧楯(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8386.JPG←二重横堀と竪堀の防御構造
 兵糧楯は、歴史不詳の城である。一説には、横尾兵衛という武士が城主であったとも言われることから、兵衛館とも呼ばれる。また別説では、志津摩信濃守(志津戸信濃守?)の居城であったともされる。一方、古代アイヌの「チャシ」ではなかったかとの説もあるほか、南東1.6kmにある西小屋館と関連する城砦との説も提示されている。いずれにしても、多くの謎に包まれた城砦である。

 兵糧楯は、標高228.5m、比高130m程の山稜上のピークに築かれている。山麓からの距離は長いが、幸い車道が城近くまで整備されており、至る所に案内板も出ているのであまり迷うことなく到達できる。非常に特異な形態の城で、北東面と南西面に二重の横堀を穿って防御した縄張りとなっているが、横堀は全周を囲繞しているわけではなく、北西と南東では切れてしまっており、中途半端な防御構造となっている。その一方で、南東には馬出し的な独立小郭が構築され、下方への防衛拠点となっていた様である。また東端部でも横堀沿いに馬出し的な小郭があるが、南東のものほど独立性が高くない。また東端付近は二重横堀に加えて2本の竪堀も穿たれ、これらの組み合わせにより巧妙な防御構造が構築されている。一方、城の中心となる主郭は、曲輪内がやや傾斜した削平の甘い平場で、外周に数段の帯曲輪を廻らしている。西側にも搦手と思われる虎口が築かれ、横堀と帯曲輪の段を貫通して主郭に通じている。全体としては卵型をした単郭の城砦であるが、全体として円形の構造など、確かにチャシっぽい印象を受ける。現地解説板にもある通り、古代の祭祀の場所が中世に地方豪族の合戦の砦に転用されて来たものの様に感じられる。夏場でも公園として綺麗に整備されており、特異な遺構と相俟って非常に興味深い。
南東の独立小郭→IMG_8361.JPG
IMG_8390.JPG←北東辺の二重横堀
 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.137223/140.677807/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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勝岡城(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8326.JPG←切岸と大手道跡の車道
 勝岡城は、後に平沢要害とも称され、伊達21要害の一である。伝承では、1402年に国分河内入道が伊達氏よりこの地を賜ったものとされている。また一説には、1591年頃に越後上杉氏の部将甘糟備後守が築城した城とも伝えられるが明確ではない。城の歴史がはっきりするのは、この地が伊達領に復してからで、慶長年間(1596~1615年)末に、伊達家の着座衆の一家、高野家15代光兼が百貫文で平沢を賜り、家中70余を引き連れて伊具郡丸森郷よりこの地に移住し、平沢要害を整備したと言う。その後高野家は9代200余年にわたってこの地を領し、幕末まで存続した。

 勝岡城は、平沢地区の比高20m程の丘陵上に築かれている。往時は、本丸と二ノ丸を土塁で囲み、南方には広く堀を巡らし、家中足軽等の屋敷を区別した約100戸の城下町を形成していたらしい。しかし城地が良質珪藻土の産地だったことから、明治末期から採掘されてしまい、平沢要害を含む丘陵部が根こそぎ破壊されてしまっている。現在は残った丘陵上に公民館が建ち、城跡の石碑と解説板が建っているが、前述の通り地形は大きく変えられてしまっているらしい。従って、車道沿いに見られる切岸地形も、どこまで往時の形状を残しているかは不明である。しかし南の屈曲する車道は、往時の大手道の形状をそのまま残しているようで、それから考えれば東側の斜面は切岸がそのまま残っている可能性がある。一方、広場になった丘陵西側の低地は、珪藻土採掘で削平された跡である。以上の様に、かなり城の遺構は失われており、現状では城の形状を把握するのも困難な残念な城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127062/140.681155/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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西小屋館(宮城県蔵王町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_8296.JPG←土塁と堀跡
 西小屋館は、江戸時代の文献によれば、志津戸信濃守の家臣村上左近という武士の居館と伝えられている。真偽不明であるが、いずれにしてもその遺構から考えれば、中世の国人領主の居館であったと考えられている。また北西1.6kmの丘陵上により要害性の高い兵糧楯(館)があり、それとの関連も指摘されている。

 西小屋館は、周囲を丘陵に囲まれた小盆地の中央付近に位置する居館である。現在館跡は民家になっているが、民家の裏側に当たる西側から北側にかけて、土塁と堀跡が残っており、また南側と東側にも堀跡が一段低い水田となって残っている。平成4年に発掘調査が実施されており、五角形の土塁と堀で囲まれた城館で、更にその西側に区画溝のある外郭があって、家臣の屋敷跡と思われる建物跡も検出されている。
 尚、西小屋館のある小盆地を囲む馬蹄形の周辺丘陵には、「~屋敷」という地名があちこちに見られ、西小屋館を中心にして居館群が形成されていた可能性もある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.125881/140.689673/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
タグ:居館
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