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亀山城惣構え(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0159.JPG←宗福寺裏の土塁
 丹波亀山城は、幕末まで存続した丹波口を押さえる重要拠点の城だっただけあって、総構えが構築されており、その一部が残存し史跡指定されている。最近では「丹波亀山城惣構跡保存会」という団体がその啓蒙活動を行っており、その資料を参照しながら総構えを辿ってみた(資料は亀岡市のHPからダウンロードできる)。その中で、史跡指定されていない宗福寺裏の土塁が、最も良く旧状を残している。しかし内側の寺は閉まっており、また外側は畑地なので近づいて見ることができず、遠目に眺めただけであるが、立派なものである。この他、嶺樹院から宗堅寺にかけての裏側に残っている土塁・水堀跡の水路が遺構としてわかりやすいが、かなり改変を受けている様で、往時の規模よりかなり小さくなっていると考えられる。この他、「遠見遮断」と呼ばれる鉤の手の道路なども残っており、往時をわずかに忍ばせている。
嶺樹院~宗堅寺裏の遺構→IMG_0217.JPG

場所:【宗福寺裏の土塁】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.008303/135.579336/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    【嶺樹院~宗堅寺裏の土塁・水堀跡】
    http://maps.gsi.go.jp/#16/35.007775/135.584421/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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東掛城(京都府亀岡市) [古城めぐり(京都)]

IMG_0098.JPG←2本土橋の架かる堀切
 東掛城は、長谷山城主赤沢加賀守義政の城であったと言われている。赤沢氏は、三好長慶の丹波入りを助けたと言われている。その後、石田氏がこの城に拠ったと言う。1577年、丹波攻略中の明智光秀が波多野氏の八上城を攻めた際、波多野方に加担していた播磨三木城の別所長治に備えるため、石田紀伊守長保を用い、石田氏は別所勢と戦ってこれを撃退するなど活躍したと言う。

 東掛城は、標高432m、比高182mの山上に築かれている。南麓に素戔鳴神社があり、その裏から尾根筋を登った。主郭に白玉竜王が祀られており、そこまでの登り道があったらしく、南尾根には踏み跡があるので、迷うこと無く城に到達できる。以下、遺構の符号は『図解 近畿の城郭Ⅲ』に従って記載する。比較的小規模な山城で、山頂にほぼ長円形の主郭があり、その周囲を腰曲輪が一周している。主郭と腰曲輪のそれぞれ東側だけ低土塁があり、その東に堀切Cが穿たれている。ここには両側に土橋が2本架かっている。その先に小郭があり、幅広の土橋が架かった小掘切で城域が終わる。一方、主郭の北西には、腰曲輪の下に二ノ郭があり、その下にも腰曲輪があって、その先に堀切Aが穿たれている。主郭下の腰曲輪からこの堀切までは、城内通路が良く残っている。堀切Aにも2本土橋が架かっている。その先に削平の甘い三ノ郭があり、先端を堀切Bで分断して城域が終わっている。大した城ではないが、堀切に架かった二ヶ所の2本土橋が特徴的である。尚、『図解 近畿の城郭Ⅲ』ではこれらを土橋ではなく「堀内障壁」としているが、変則的な土橋であろうと私は考えている。
主郭虎口と腰曲輪→IMG_0049.JPG

お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.944761/135.544209/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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小家台城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

DSC09226.JPG←社殿周囲の平場
 小家台城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、後三年の役の際に、八幡太郎源義家がここに在陣し、戦勝祈願のために河井八幡宮を再建したと言う。
 小家台城は、那珂川南方の標高270mの山中にある。かなり山深い場所であるが、ここまで車道が伸びているので、簡単に訪城することができる。山頂に河井八幡宮が建っており、その周囲は平坦な平場となり、外周に土塁らしいものも見られるが遺構かどうかはわからない。また神社地以外にも、東側に一応曲輪らしい平場があり、何らかの城砦が構えられていた可能性はある。しかし普請の痕跡は不明確で、もし城があったとしても物見程度のものだったろうと推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.561540/140.210910/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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茂木城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

DSC09152.JPG←二ノ丸から見た堀切と本丸切岸
 茂木城は、この地の豪族茂木氏の歴代の居城である。宇都宮氏の一族で常陸の有力御家人、八田知家が軍功によって茂木保の地頭職に任命され、その後3男の知基が1192年に茂木に入部して茂木城を築き、茂木氏を称した。以後、治良まで16代の居城となった。南北朝期の5代知貞の時代に城の全容が完成したと言われ、茂木氏は一貫して北朝方として活躍した。7代知世の時が全盛期とされ、1381年の小山義政の乱でも軍功を挙げている。戦国時代になると、南から勢力を拡張してきた小田原北条氏に対抗するため、宇都宮氏と共に佐竹氏と結んだ。1585年には、北条氏の攻撃を受けて茂木城は落城したが、その後、佐竹義重によって奪回された。1590年の小田原の役で北条氏が滅亡し、豊臣秀吉から佐竹氏が常陸一国を安堵されると、茂木氏は完全にその家臣となった。1594年、茂木治良は佐竹氏の命によって常陸小川城に移り、その後は佐竹氏の家臣須田美濃守治則が茂木城主となった。1610年、細川興元(忠興の弟)が茂木に入ると、新たに平地に陣屋を構え、茂木城は廃城となった。

 茂木城は、逆川北岸にそびえる比高80m程の広い台地上に築かれている。広大な城で、中央の千人溜と呼ばれる窪地の周りに、南西に本丸、西に二ノ丸、北に三ノ丸、南東に出丸、北東に馬場を配置している。これらは、千人溜の周りをぐるりと囲むように高台上に曲輪群が連なり、しっかりした高さ5m以上の切岸でそびえている。城内の南側半分は城山公園として整備されている。本丸は北から西にかけて土塁で囲まれ、土塁上は幅が広く多門櫓などが建っていたと想像される。本丸西側には、堀切を介して馬蹄形曲輪が築かれている。二ノ丸は城主居館があったとされ、土塁のない平坦な平場で、現在は杉林となっている。三ノ丸・馬場は、未整備の藪に覆われ、進入できない。三ノ丸外周には空堀が穿たれ、空堀外周に土塁が築かれて、北の台地との間を切岸で区画している。本丸・二ノ丸・三ノ丸の間は、それぞれ幅の広い堀切で分断されている。一方、南東の出丸も、千人溜との間に堀切が穿たれているが、ここには横矢のクランクが見られる。この他、南斜面や東斜面に腰曲輪が廻らされている。以上が城の主要部であるが、城の北側の「館地区」も台地の上にあり、外郭として機能していたらしい。東側の館集落入口の小道はクランクしており、おそらく枡形虎口の跡と考えられる。外郭は広大な畑になっているので、それ以上の探索はできなかった。茂木城は、鎌倉時代から続く名族の城として、今でもその威容を誇っている。桜の咲くタイミングを見計らって行ったが、好天の中、桜吹雪を見ながらの城歩きとなり、最高の一日だった。
本丸西側の堀切と馬蹄形曲輪→DIMG_3252.JPG
DSC09044.JPG←出丸の横矢掛かりの堀切

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.536959/140.184774/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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彫堂七館(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3168.JPG←長館の横堀
 彫堂七館は、歴史不詳の城である。古くは「七館八沢」と呼ばれていた。『余目記録』によれば、南北朝期の観応の擾乱の際、奥州管領として派遣されていた吉良貞家(足利直義方)・畠山国氏(足利尊氏方)の両者が中央の情勢に連動して争った時、長世保に拠った畠山氏に対して、吉良方に付いた大崎氏が色麻川(現・鳴瀬川)を隔てた鉢森に陣取り遠矢の合戦をしたと言う。この鉢森が現在の鉢谷森と考えられている。(但しこの伝承には少々疑問がある。大崎氏の初代斯波家兼は、直義方であった兄高経と袂を分かち、終始尊氏方として活躍した武将なので、直義方の吉良氏に付いたとは考えにくい。)いずれにしてもこの地は大崎領の東端に当たり、鳴瀬川対岸に進出した葛西・伊達氏に対する最前線であった。ちなみに葛西・伊達両氏は、北畠顕家の奥州府を支えた東北南朝方の主柱とも言うべき武将であったので、その観点からすれば北朝対南朝の図式でも捉えられる城である。一方、江戸時代にまとめられた『仙台領内古城書上』には彫堂城の記載が見え、伝承では蜂谷筑前守という武士が居城したとされている。現地解説板では、彫堂城は彫堂七館の一郭蜂谷森の別名であろうとし、蜂谷筑前守は大崎氏に関連した武将かもしれないと推測している。彫堂七楯は、歴史不詳ながら、大崎氏によって築城された可能性が高いと推測されている。

 彫堂七館は、出来川北岸の東西に連なる比高15~30m程の丘陵上に築かれている。西から順に、山前館・長館・大館・小館・陣館・狼之介館・彫堂館(蜂谷森)・笹館の八館から成るとされる。八館なのに何故七館と呼ぶようになったのかは不明。全長で東西800m程にも及ぶ広い城域から成るが、基本的には単純な縄張りで技巧性には乏しい。小館・陣館・狼之介館・彫堂館の4つは公園化されており、このうち小館・彫堂館には北側半周を取り囲むように空堀が穿たれている。それ以外は単に頂部の平場の周囲に腰曲輪などが築かれているに過ぎない。また陣館・狼之介館の間には堀切があったとされるが、公園化による改変のためか、わからなくなってしまっている。大館は民家と畑になっており、外から見るしかできない。長館は、最も広い館で、主郭の全周を横堀で囲んでおり、更に周りに腰曲輪を築いているようだが、未整備の山林となっている。残りの山前館・笹館はいずれも民家裏の山林で、進入は憚られ、未踏査である。遺構を確認した限りでは、腰曲輪と空堀だけで横矢もなく非常に単純な縄張りで、まるでチャシの様である。南北朝期の城として見ても、少々見劣りする城館である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.539531/141.053274/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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西館(宮城県美里町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2957.JPG←本丸切岸と水堀
 西館は、鶴頭城とも言い、また江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、不動堂要害と呼ばれた城である。元々は葛西氏の家臣有壁摂津守の城であったと言われ、葛西氏と大崎氏の抗争の場となった。また天文年間(1532~55年)には伊達天文の乱の余波で大崎小僧丸(義宣)が西館に立て籠もって養父大崎義直と争うなど、大崎氏の内訌の舞台ともなったと伝えられ、この時期には大崎氏の支城であったと言う。有壁氏は、金成町の有壁館を本拠とする豪族で、おそらくは大崎氏に備えるために葛西氏が有壁氏をこの地に置いて守らせたものが、その後の変遷で大崎氏の支配下に入ったと思われる。いずれにしても、葛西領・大崎領との接壌地帯にあった城館であった。1588年には、伊達氏の家臣で千石城主遠藤高康の攻撃を受けた。1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で大崎氏が改易されると、その後の葛西大崎一揆を経て伊達氏領となり、1611年に後藤信康がこの地を拝領し、1620年に信康の子近元が西館に居城を移し、以後幕末まで後藤氏の居館として存続した。

 西館は、鳴瀬川北岸の小丘陵に築かれている。台形状の小丘陵に本丸を置き、その外周に水堀を廻らし、更に外側の低台地に二ノ丸を廻らした梯郭式の縄張りとなっている。本丸は現在、鶴頭公園となっており、かなり改変を受けているもののわずかに土塁や腰曲輪などが残っている。北側には堀底道のような歩道があるが、これも遺構であろうか?一方、水堀は南東部分のみが護岸工事をされた形で残っている。二ノ丸は、市街化で大きく改変されているが、辛うじて周囲よりわずかな高台になっていて、地勢を残している。感じとしては、佐沼城のミニチュア版と言った雰囲気である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.528268/141.078465/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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涌谷城(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2919.JPG←北尾根の堀切
 涌谷城は、江戸時代には仙台伊達藩が江戸幕府に備えてその領内に取り立てた二十一要害の一、涌谷要害と呼ばれ、涌谷伊達氏(亘理氏)の居城である。元々は、奥州探題として勢威を誇った足利一門の大崎氏の庶流涌谷氏の居城であった。涌谷氏は、大崎氏初代家兼の3男彦五郎が百々城を居城として百々美濃守を名乗り、その2男が涌谷美濃守と称して涌谷氏の祖となったとも、或いは大崎氏5代満持の弟高詮が百々氏の祖となり、その2男直信が涌谷氏の祖となったとも言われる。いずれにしても大崎氏の一門として続いたが、1590年の豊臣秀吉による奥州仕置で、宗家大崎氏と共に滅亡した。その後、葛西大崎一揆を経て、伊達氏領となり、1591年に伊達氏重臣の亘理重宗に涌谷城が与えられた。重宗は最初、百々城に入り、翌年涌谷城に入城した。以後、涌谷城は近世城郭へと改修された。1604年に重宗は、隠居領として高清水城を与えられて移り、その子定宗が涌谷城主となり、1606年に伊達姓を与えられて、伊達一門・涌谷伊達氏となった。涌谷伊達氏は新田開発に努め、4代安芸宗重の時には石高2万2千石余に達したが、隣接する登米伊達氏との間で境界争いに端を発し、寛文事件(いわゆる伊達騒動)を巻き起こした。その後も涌谷伊達氏の居城として幕末まで存続した。

 涌谷城は、江合川西岸の南北に細長い丘陵上に築かれている。丘陵上は、2段の平場に分かれ、上段曲輪に涌谷神社が建ち、下段曲輪は公園化されているので、かなり改変を受けている。上段曲輪は近世には使用されていなかったようであるが、中世の主郭である。下段曲輪が近世の本丸で、南北に長い平場で伊達氏の居館が建っていた。中世ではニノ郭であった。その南端に、資料館となっている模擬天守と、現存遺構である太鼓堂という隅櫓が建っている。太鼓堂の周りの石垣も遺構であるそうだ。丘陵西側斜面に段が見られるが、これも往時の腰曲輪・犬走りの遺構であるらしい。この他、涌谷神社の北側に台地基部を分断する堀切が一部残存している。近世には、城下南側の平地に一之曲輪、東側に二之曲輪があり、水堀で囲まれていたが、現在は市街化で湮滅している。亘理要害同様、城の雰囲気は残しつつもかなり改変されてしまっているのは惜しいところである。
石垣と太鼓堂→IMG_2893.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.546496/141.130350/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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日向楯(宮城県涌谷町) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2874.JPG←周囲の帯曲輪
 日向楯(日向館)は、歴史不詳の城である。現地標柱などによれば、古く天平勝宝年間(749~757年)に黄金奉行として入来した第獄日向守の居館であったと伝えられている。事実かどうかは確証がないが、日向楯やその近辺の「城山裏土塁」など古代(8世紀~12世紀末)の役所や公的施設があった可能性が高い遺構が確認されており、律令国家の北辺に位置する小田郡の重要地点として、天平産金に大きな役割を果たしていた可能性が推測されている。そうなると、東大寺の大仏造営と密接に関係していた遺跡ということになろう。

 日向楯は、比高40m程の山稜南端のピーク上に築かれており、現在は妙見社が建っている。山頂はほぼ平らに削平されており、周囲に帯曲輪が確認できる。標柱には西側に空堀跡があると書かれているが、確認できたのは帯曲輪だけで空堀は確認できなかった。いずれにしても、古代の古い施設であったのだろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.545791/141.137795/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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樫崎城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2798.JPG←主郭北側の空堀と櫓台
 樫崎城は、内館城とも呼ばれ、山内首藤氏の家臣男沢内膳の居城と伝えられている。永正年間(1510年頃)に七尾城主首藤貞通・知貞父子が、石巻城主葛西宗清と対立し、葛西勢の大軍の攻撃を受けた際、樫崎城も葛西勢の猛攻により落城したと言われている。

 樫崎城は、北上川西岸の標高34.5mの丘陵上に築かれている。南西の民家敷地に登り道が確認できるが、進入できないので、北西麓の鹿嶋神社裏手から登城した。最高所の主郭を中心にY字型に曲輪を配した縄張りとなっている。西郭は畑となっているが、主郭も含めたその他の曲輪は山林や耕作放棄地となっている。西郭から山林に入っていくと、すぐに西側の堀切に行き当たる。西側に土塁を築いた一直線状の堀切である。そこから更に東に進むと主郭周囲の広い腰曲輪に至る。ここは耕作放棄地であるが、藪が少なく開けている。ここからは南東郭群が段々になっているのがよく分かる。また東郭群は山林の中に段になった曲輪群が確認できる。主郭は、切岸で囲まれた方形に近い曲輪で、北側には横堀が穿たれ、中央付近にやや張り出した櫓台が築かれ、空堀がその周りで屈曲して横矢が掛かっている。この他、前述の西堀切よりも南東側斜面に竪堀が1本落ちている。なだらかな丘陵上の城で、比較的旧態依然とした縄張りなので、大軍に攻められたらひとたまりもなかったろうと想像される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.564853/141.290982/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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沢山城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_2760.JPG←主郭と思われる寺崎八幡神社
 沢山城は、寺崎城とも呼ばれ、葛西氏の家臣寺崎氏の居城である。伝承では、元は奥州藤原氏の部将西條氏の居城であったとされる。寺崎氏は、奥州千葉氏の一族とも、或いは葛西氏の一族とも言われ、下総国葛西庄が本貫地であったが、葛西氏に従って奥州に下向し、桃生郡に沢山城を築き、代々葛西氏の重臣を務めた。戦国時代の1507年、金沢城主金沢冬胤が葛西氏に対して反乱を起こすと、寺崎下野守時胤は日形城主千葉秀胤らと共に金沢を攻めて討死した。五郎三郎重清(時継)が寺崎氏を継いだが、千葉秀胤も討死したことで峠城が空き城となり、寺崎氏は峠城を押さえて本拠を移した。一方、沢山城には一族の寺崎伊予守を残したらしい。その後の沢山城主寺崎氏の事績は不明である。

 沢山城は、標高20m程の八幡山と呼ばれる丘陵上にあり、現在は寺崎八幡神社の境内となっている。縄張図もないのでよく分からないが、神社が建っているのが主郭らしい。その南側に一段低い平場が広がっているが二ノ郭であろうか?特に堀切などの明確な城郭遺構は確認できず、どこまで城域が広がっていたかもわからないが、宮城県遺跡地図では八幡山全体が城跡であったとしている。しかし八幡神社の東側は、壊滅的な乱開発で地形が変形してしまっており、遺構は望むべくもない。以前は八幡神社の参道下に城址標柱があったようだが、それも今はなくなってしまっている。非常に残念な状態である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.569886/141.259353/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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