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下野郷館(宮城県岩沼市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9249.JPG←堀跡の水路と土塁
 下野郷館は、矢野目足軽城とも呼ばれ、当初は奥山民部という武士の居館であったが、伊達氏に滅ぼされたとされる。その後、矢野目足軽と呼ばれる軍団の居住地となった。矢野目足軽は伊達家62万石直属の足軽で、藩祖伊達政宗が豊臣秀吉の命によって米沢から岩出山城に移封となった際に、政宗の従者として米沢の矢野目より移住し、更に1603年に政宗が仙台城を築いて居城を移すと、この地に居を構えた鉄砲足軽であった。その後、この地は仙台藩家臣奥山与市左衛門の知行地となり、矢野目足軽はその配下に組み込まれた。しかし矢野目足軽は伊達家直参として政宗の信頼が厚く、それゆえ水運を扼し、かつ海防の任に当たるこの要衝に置かれたのだと言う。

 下野郷館は、五間堀川北岸の平地に築かれていた。前述の通り近世には足軽軍団の居住地となった為、中世の遺構は表層には残っていないと思われる。現在残っているのは近世の矢野目足軽城としての遺構で、中央集会所周囲に居住地外周を取り巻く土塁や水堀の一部が水路となって残っている。ここは矢野目足軽城の北西隅の部分に相当するらしい。以前は、下野郷駐在所の真向かいに石碑と標柱が建っていたが、現在は中央集会所敷地の西端に場所が移動されていた。それにしても足軽軍団を集住させた城というのも珍しい。野望を抱き続けた政宗らしい用心深さである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.127037/140.902705/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
    (地図中央は石碑の位置を示す)
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吉野城(宮城県角田市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_9201.JPG←微高地となった主郭跡
 吉野城は、吉野五良という者の城と言われている。現地解説板によれば、吉野五良とは後醍醐天皇の皇子義良親王(後の後村上天皇)のことで、1336年に伊久(伊具?)の国官府として吉野城を築いたとされる。そして、吉野五良の姫が病没後、その霊を祀るために阿弥陀堂を建立したと言う。阿弥陀堂は吉野城址の北西に現存し、前述の解説板はその堂宇の脇に立っている。しかしこれは随分おかしな伝承で、義良親王は後に吉野で父帝の後を継いで後村上天皇となっているし、陸奥国司・鎮守府将軍北畠顕家に奉じられて奥州に下向した先は多賀城であり、その時はまだ7~8歳の幼少であり、もしここに居たことがあったとしても姫など出生できる年齢ではない。おそらく「吉野」と言う名から連想した、随分無理のある仮託であろう。

 吉野城は、阿武隈川西岸の平地に築かれている。現在確認できるのは主郭跡の方形の区画で、民家と畑になっているので旧状をかなり失っていると思われるが、周囲よりこの区画だけわずかな微高地となっているのがわかる。また東側には堀跡らしい溝状地形が確認できる。解説板によれば、往時は内濠・外濠があり、東を搦手・西を西木戸・南を朱雀の木戸・北を松枝屋敷と言っていたらしい。外郭は回字状に主郭の周りを取り巻いていたと推測されているが、改変が激しく、ごく一部に土塁跡らしき土盛を残すほかは、既に塁線を追うことすら困難である。吉野城は、既に往時の姿は見る影もないが、南東角に建つ城址碑と前述の阿弥陀堂だけが歴史を伝えている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/37.995089/140.802777/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
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助川海防城(茨城県日立市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9125.JPG←物見番所跡
 助川海防城は、水戸徳川藩が江戸時代後期に築いた海防を目的とする城である。徳川幕府は長らく鎖国政策を採ってきたが、1790年代よりロシア船を始めとする外国船が度々日本近海に現れ、その一部は日本に通商を求めるようになっていた。強硬な攘夷論者であった水戸藩9代藩主徳川斉昭は、天下に率先して海防の重要性を強調し、1836年、家老山野辺義観(出羽の驍将最上義光の4男山野辺義忠の裔孫)を海防惣司という新設の役職に任じて、太平洋を一望できる助川村の高台に海防を目的とする城を築いて居住させ、異国船の侵入に備えさせた。築城に当たっては、新規築城は幕府から禁止されていたため、佐竹氏時代に新城七郎という武士(小野崎氏の庶流介川氏の一族か?)が築いていた蓼沼館を修築して海防惣司の屋敷にするという名目で、許可を受けたと言われる。以後、山野辺氏が歴代の城主を務めた。1864年9月、水戸藩で発生した天狗党の乱の時、城主山野辺義芸は天狗党側と見做されて幕府軍に攻撃され、助川海防城は落城・焼失した。

 助川海防城は、日立の海岸線から約2.2km離れた、標高110m程の丘陵上に築かれている。海防、即ち沿海警備を目的とする城である為、普通に思い浮かぶ城郭とは大いに趣を異にしている。本丸から南東斜面に段々に曲輪群を連ねただけの構造で、一般の近世城郭とはおよそ程遠い。本丸や二ノ丸は現在城跡公園となっているが、曲輪群と切岸のほかは遺構はかなり少ない。本丸には土塁が散在している。本丸正面に内枡形状の空間があるが、公園化による改変の様に見受けられる。というのも、全然違う場所に正門礎石が残っているからである。これらの他、公園内各所に標柱などが建っている。この様に往時の面影を朧気ながら伝えるのは公園部分のみで、公園以外の部分は市街化が激しく、旧状を推し量りにくい。助川海防城は、遠見番所を備えたことからも物見による警備を主目的とした城であったことが窺える。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.592006/140.639462/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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茅根城(茨城県常陸太田市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9070.JPG←南側の腰曲輪状の畑
 茅根城は、佐竹氏の家臣茅根氏の居城である。茅根氏は、佐竹氏の重臣であった小野崎氏の一族で、小野崎通長の次男通景が茅根大和守を称して茅根氏の祖となり、茅根城を居城とした。後に茅根氏は大橋城に居城を移したらしいので、この頃に茅根城は廃城となったのだろう。

 茅根城は、里川東岸の河岸段丘に築かれた城である。段丘上は大きく2つの区域に分かれ、旧佐都小学校があった根古屋部とその上の高台の主城部である。いずれもほとんど耕地化しており(一部は耕作放棄地)、遺構はほとんど残っていない。主城部は、よく城巡りの参考にさせてもらっているHP「北緯36度付近の中世城郭」では現在畑中に残るクランクした畑道を空堀跡とし、それを境に東西に2つの曲輪を並べた城であったと推測しているが、現状からでは実際にどのような城だったのかはなんとも言えない。既に戦後の航空写真でも一面の畑となっており、空堀の痕跡は見出だせない。ただ台地南側に何段かの腰曲輪跡らしい畑があり、南と南西に虎口跡らしい地形が残っている。また北側にはわずかであるが土塁の残欠が見られ、その脇に古道が通っていることから虎口跡であったと想定されている様だ。おそらく鎌倉時代に築かれた居館機能を主とした素朴な構造の城館が、茅根氏の移住に伴ってそのまま打ち捨てられたと考えられ、元々あまり城郭らしい遺構を残していなかったのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.578635/140.543375/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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小堤館(茨城県那珂市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8971.JPG←鱗勝院に残る土塁
 小堤館は、額田城の出城と考えられている。現在鱗勝院と言う寺が建っているが、鎌倉前期に額田城を築いた額田蔵人大夫義直がこの鱗勝院を中興開基しており、その際に有事の際の出城として機能するよう構築したものと推測される。一説には、額田氏が額田城を築く前に一時期居館を置いていたとも言われるが、定かではない。
 小堤館は、額田城の南西に位置し、三角形状に張り出した台地上に築かれている。現在は前述の通り鱗勝院の境内となっている。構造としては非常に簡素で、寺の西側に一直線状に土塁を築き、現在は道路となって湮滅しているが土塁の外側に空堀を穿って防御していた様である。土塁は特に南側でよく残っている。この他、南西の段丘辺縁部などにも土塁や堀、虎口らしい地形が見られるが、実際にそこまで城域が広がっていたかは不明である。尚、鱗勝院の境内墓地には額田佐竹氏の墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.485478/140.516253/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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平戸館(茨城県水戸市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8958.JPG←吉田神社西側の堀・土塁跡
 平戸館は、大掾氏の一族、平戸氏の居館である。応永年間(1394~1427年)に、平戸甚五郎久幹が居城したと伝えられている。1426年、大掾満幹が府中に赴いて留守の間に、河和田城主江戸通房は大掾氏の居城である水戸城を奪取した頃には大掾氏一族の勢力は漸減し、平戸館もこの頃に廃城になったものと推測されている。
 平戸館は、涸沼川西岸の平地に築かれた平城である。南北2郭から成る小規模な城館で、南が主郭、北が二ノ郭と推測される。主郭は全周を掘で囲まれた正方形の曲輪であったが、民家と畑に変貌しており、堀は西側に僅かな溝状地形となって残っているのみである。二ノ郭には吉田神社が鎮座し、西側に僅かに堀跡と土塁跡が残っている。いずれにしても非常に小規模な城館で、その規模から考えると、平戸甚五郎が居住した応永年間の頃には大掾氏の勢力はかなり衰退していたことが窺われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.324435/140.559211/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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沖宿堀ノ内館(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8918.JPG←堀跡の蓮根畑
 沖宿堀ノ内館は、歴史不詳の城館である。一説には、小田治朝の居館であったとも言うが定かではない。しかし近くの海蔵寺は治朝が開基で治朝の墓も残っていることから、治朝に所縁深い城館であったことは想像に難くなく、或いは治朝の隠棲地であったかもしれない(治朝は、小山義政の乱で敗死した小山義政の子若犬丸を庇護したことから、鎌倉公方足利氏満の討伐を受けている)。
 沖宿堀ノ内館は、霞ヶ浦北岸の平地に築かれている。南北に長い縦長の単郭方形居館であったと考えられる。館跡は現在畑となり、周囲の堀跡は東側以外の3面は残っているが、蓮根畑に変貌しており、夏だと蓮の葉が生い茂っていて蓮の葉のベルトにしか見えない。主郭は周囲よりわずかに高い微高地となっているが、土塁は確認できない。いずれにしても小規模な居館であった様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.070981/140.255692/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高井城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8889.JPG←八坂神社北側の丘陵斜面
 高井城は、歴史不詳の城である。時代は不明であるが、『日本城郭大系』では諸岡盛綱の居城であったと記載されている。また1341年に鎌倉府の執事高師冬が北畠親房を擁した小田治久の小田城を攻撃した際、高井城も攻撃を受けたとされる。その他については不明である。

 高井城は、桜川南岸の独立丘陵上に築かれた城である。元々は三角形に近い形状で、東側にやや張り出しを有した丘陵であったが、現在は中央部を南北に国道6号バイパス(土浦バイパス)が貫通し、八坂神社が建っている部分以外は丘陵が全面削平されてしまっており、往時の姿はわずかしか残っていない。戦後の航空写真を見ると、神社南のアクティオや茨城トヨペット、国道を挟んで東側のスーパー敷地が丘陵となっていた。現在は綺麗に平地になってしまっている。従って、唯一残っているのが前述の通り八坂神社の境内部分だけである。ここは主郭北西側の腰曲輪の一部のようである。八坂神社北側の斜面が、唯一往時の形状を残していると思われる。戦後の航空写真だと、神社の南東に一段高く方形に近い形の主郭があった様だが、現在は消滅している。位置的にはちょうどアクティオから国道までの部分に相当する。また東の張出し部分に舌状曲輪を何段か築いていたようにも見受けられる。結局、丘陵の大半が消滅している為、残っている遺構が断片的すぎるので、何とも評価し難いのが実情である。一応神社の裏に土塁の様なものは残るが・・・。尚、境内には宝篋印塔があるが、南北朝時代のものと推測されており、高井城陥落時の供養塔と考えられているようだ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.076653/140.177200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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小田城 その2(茨城県つくば市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_4756.JPG←前山城から見た現在の小田城
(写真クリックで拡大)

 私が小田城を最初に訪れてから、ちょうど10年になる。この間、つくば市によって毎年毎年、継続的に発掘調査が続けられ(10年前の訪城時もあちこち発掘中でブルーシートが掛かっていた)、ここ数年はこれらの調査結果に基づいた復元整備が進められてきた。そしてようやく2016年のGWに歴史広場として開園されたので、2017年8月に近くに来たついでに再訪した。ここでは復元整備された内容を抜粋して紹介する。

<本丸の堀と大手土橋>
IMG_8733.JPG
 埋められていた堀はやや掘り下げられ、大手虎口に繋がる土橋が復元された。土橋の北半分の土台には、発掘調査結果に基づいて石積みも復元された。

<本丸外周の土塁>
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 本丸外周には、往時は全周に土塁が築かれていたが、廃城後に崩されて堀を埋めるのに使われてしまっていた。発掘調査の結果、平安時代以後6層の変遷が確認され、15世紀中葉以降に徐々に土塁が大型化していった様子が判明した(ちょうど関東が戦国時代に突入する画期となった享徳の乱の勃発によるものでしょうか?)。この結果に基づいて、推定される高さまで全周の土塁が復元された。

<東池跡・建物跡>
IMG_8786.JPG
 本丸内には、池を眺める庭園が築かれていることが、発掘の結果判明した。岸辺には庵のような小型建物跡も検出されており、その跡も表示されている。同様な庭園は、武蔵鉢形城・出羽舘山城・遠江鳥羽山城などにも検出されており、戦国の殺伐とした時代でも庭園を眺めて和歌を詠む様な風流は、武将必須の教養であったことが窺われる。特に小田氏は関東八屋形に列せられた名門大名であり、家臣たちとしばしば連歌の会を催したことが伝わっているので、庭園が築かれていても何ら不思議はない。尚、小石を散りばめた「州浜」まで復元されている。

<南西虎口>
IMG_8810.JPG
 以前は形が残っていなかった南西の搦手虎口が復元された。戦国末期の最終段階の普請で築かれたらしい。虎口部分には石垣が築かれていたことが判明しており、その型を取った樹脂製の石垣が、本来の石垣の上に盛土をして保護した上に設置された。

<南西馬出>
IMG_8814.JPG
 南西虎口の前面には角馬出が構築されていた。以前もその形は、なんとなく残っていたが、周囲の土塁も含めて綺麗に復元され、東隣りの曲輪に繋がる土橋も復元された。尚、南西虎口とは木橋で連結されていたことが判明しており、その通りに木橋を架けて復元されている。


 これらの他に、本丸内には建物跡が地面に表示され、通路の石敷き、大溝跡や水路跡なども復元されている。また現時点では本丸以外にも、二ノ丸の一部に当たる本丸東側の曲輪が復元されている(その一部に民家が残ったままというのがすごいが)。とりあえずここまでの整備で一区切りとして歴史公園をオープンしたが、その他の外周の曲輪についても、まだ発掘調査と整備が続けられている様である。

 また近くには案内所が解説されており、パンフレットの他、無料で詳細な情報を得ることができる。ボランティアの解説員までいらっしゃった。その方の話では、なんでも日本のX線天文学の大家であった故・小田稔氏(X線源の位置を精度良く特定できるようにした「すだれコリメーター」の発明者)は、小田氏一族の末裔であるらしい。小田稔氏の娘さんがここに来て、そう仰っていたそうだ。ビックリつながりである。

 ところで角馬出で思い出したが、小田城では障子堀も各所で検出されている。角馬出、障子堀と言えば、小田原北条氏の築城法の代名詞のような技術である。小田氏が築いたのか、それとも小田氏治が城を追われた後に入城した梶原政景が築いたのかは不明だが、小田城に北条氏の築城技術が導入されていることは注意すべきである。これについては他の城の例もあるので、機会を改めて考証してみたい。
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田土部城(茨城県土浦市) [古城めぐり(茨城)]

IMG_8695.JPG←外郭西端部の土塁
 田土部城は、小田城主小田氏の支城である。元々は、室町初期の頃に田土辺左衛門尉忠貞と言う武士が築いたと伝えられる。戦国期には小田氏14代政治の次男信濃守政秀が田土部城に拠り、田戸部氏を称した。その後、小田氏が佐竹氏の攻勢によって衰退すると、田土部城は廃城になったと言う。

 田土部城は、桜川東岸の田土部集落に築かれていた。集落全体がほぼ城域に一致すると言うことであるが、宅地化で遺構はほとんど湮滅している。集落中心の東将寺付近に主郭があり、その北側に堀跡の様な溝状地形が見られる。またそこから小道を挟んで西側にも堀跡らしい溝が残っているが、夏場だったので草木が生い茂っていて形状を把握することはできなかった。これは大手虎口脇の堀であったらしい。その脇のブロック塀の中に土塁が残っていた様だが、ガサ藪で訪城時は気付かなかった。集落外周部には外堀の名残の水路が廻っており、郭内は周りよりもわずかな微高地となっているのがわかる。そして外郭西端部にも僅かであるが土塁が残っている。しかし城址標柱も解説板もなく、城の歴史は完全に埋もれてしまっている様だ。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.127277/140.131302/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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