So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

打出浜古戦場〔大楠公戦跡碑〕(兵庫県芦屋市) [その他の史跡巡り]

IMG_7709.JPG
 打出浜古戦場は、南北朝時代の古戦場である。普通、打出浜合戦と言えば観応の擾乱の際に足利直義の軍勢と戦って足利尊氏・高師直が敗れた合戦を指すが、それ以前にもあり、合わせて前後2回の合戦が行われている。

 最初の合戦は、1336年。竹之下合戦で新田義貞率いる朝廷軍を打ち破り、西上した足利軍は、第1回目の京都争奪戦に敗れ、逃れた尊氏は丹波経由で兵庫津に陣を移した。ここで、態勢を立て直して反攻を期す足利軍と、追撃してきた新田義貞・北畠顕家・楠木正成らの朝廷軍とが再度激突した。その戦いの経緯は『太平記』と『梅松論』とで記述が異なっているが、いずれにしても旗色の悪かった足利勢は敗れて西へ指して引き退き、室泊の軍議を経て九州へと落ち延びることとなった。

 2度目が有名な観応の擾乱での戦いである。1350年、将軍足利尊氏と執事高師直は、西国で猛威を振るい始めていた足利直義(恵源)の養子直冬(実は尊氏の庶子)を討伐するため、軍勢を率いて西に向かった。この隙を突いて、政務を辞し出家に追い込まれていた直義(恵源)は京都を脱出して河内石川城に入って、師直打倒の兵を挙げた。驚いた尊氏は備前国福岡より軍を引き返し、石見三隅城を攻撃していた高師泰の軍勢も急遽引き返させて、播磨の書写坂本で合流した。1351年2月、尊氏・師直方と直義方の両軍は摂津打出浜で激突した。戦意旺盛な直義方が尊氏・師直勢を圧倒し、尊氏の親衛隊長とも言うべき師直・師泰兄弟が負傷して戦意を喪失して、尊氏方が敗北した。『太平記』によれば、この時尊氏を始め高一族など主要な武将たちは自刃を覚悟したが、尊氏の小姓饗庭命鶴丸の奔走で師直・師泰兄弟の出家を条件に和睦が成り、尊氏以下の諸将は上洛の途に付いた。しかし先年、師直に養父重能を殺されていた上杉能憲は、武庫川辺で師直・師泰兄弟を始めとする高一族を悉く誅殺した。

 尚、南北朝時代には街道の要衝で度々合戦が行われた為、打出浜に限らず、同じ要地で何度も干戈が交えられた。

 打出浜古戦場は、現在国道2号線北側に楠公園があり、そこに大楠公戦跡と刻まれた立派な石碑が建っている。これもまた全国によくある南朝方礼賛の石碑と解説板で、皇国史観全盛で日本が右傾化していた昭和11年(2・26事件のあった年)に建てられている。その為、楠木正成の事績のみを大々的に記し、「逆賊」足利氏の内訌については何ら記載するところがない。また朝廷軍と足利軍の戦いについても、主将は新田義貞であったので、本来は「新田義貞戦跡」と書かれるべきであろう。この辺りが、皇国史観の「虚偽観念」という史実無視の発想らしい。尚、歴史的には観応の擾乱での合戦の方が重要であり、現代ならばそれについての補足説明を加えても良いと思うのであるが・・・。

 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.734921/135.317810/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:古戦場
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

船上城(兵庫県明石市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7705.JPG←本丸周囲の堀跡の畑
 船上城は、キリシタン大名として有名な高山右近が築いた城である。織田信長横死後の1585年、天下統一を目指す豊臣秀吉は大名の国替えを断行し、摂津高槻城主高山右近重友が明石与四郎則実に代わって明石郡6万石を与えられた。右近は最初、明石氏の居城枝吉城に入ったが、直ちに船上城の築城に取り掛かった。一説には、この地には別所吉親(三木城主別所長治の叔父)が築いた林ノ城があり、それを右近が拡張整備したとも言われている。しかしわずか2年後の1587年6月、秀吉はバテレン追放令を発し、右近は改宗を拒否して領地没収の上、追放となった(一時的に加賀前田家が名築城家で声望もあった右近を庇護し、右近は高岡城の縄張りを行った)。その後、明石は豊臣氏の直轄領となった。秀吉の死後、1600年の関ヶ原合戦で天下の覇権を握った徳川家康は、女婿の池田輝政を播磨姫路城に配し、明石船上城にはその一族池田出羽守由之が入ってこれを守った。1615年の一国一城令で、船上城は櫓や堀を廃して城構えから屋敷構えに改修され、1617年に信濃松本城主小笠原忠政が明石に移封となると、2代将軍徳川秀忠の命により明石城が新たに築城された。船上城の用材の一部は明石城へ転用され、1620年の明石城完成と共に船上城は廃城となった。

 船上城は、明石川の河口付近の西側の平地に築かれていた。周囲一帯は宅地化で遺構は完全に失われ、本丸跡は畑になり、その中の小さな土壇に神社が残っている程度である。また本丸周囲には堀跡の水路と低い畑が残っている。戦後間もなくの航空写真を見ると、本丸を始めとして東西に方形に近い形の畑が3つ~4つ程並んでおり、連郭式の城だったようである。方形の曲輪を並べる平城の形態は、この後に右近が縄張りした高岡城とも共通している。いずれにしてもほぼ完全に失われてしまった城である。尚、水路を挟んで本丸北東にある公園に、船上城の解説板が建っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.647834/134.975023/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
nice!(4)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

明石城(兵庫県明石市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7377.JPG←堀切兼用の東大手道
 明石城は、2代将軍徳川秀忠の命により、西国諸藩への備えとして新造された城である。1617年、大坂の役の戦功によって信濃松本城主小笠原忠真は明石10万石を賜り、船上城に入部して明石藩が成立した。それ以前の明石は姫路城主池田輝政の領国で、甥の池田出羽守由之を船上城に置いて守らせていた。輝政の死後、嫡男利隆が若死にして幼い光政が当主になると、江戸幕府は光政を鳥取城に移し、播磨を二分して姫路城には本多忠政を、明石には小笠原忠真を配した。そして翌18年、将軍秀忠は、忠真に忠政(忠真の舅)の指導を受けて新城を築くよう命じた。忠真は領内から3ヶ所の築城候補地を選定し、秀忠の決裁で現在の地が選ばれた。同年10月、幕府は3名の普請奉行を派遣すると共に普請費用として銀一千貫を支出した。その4ヶ月前には戸田氏鉄に尼崎築城を命じており、幕府は大坂防衛のために姫路・明石・尼崎の3段構えの防御線を構築しようとしていたと言う。明石城の築城は1619年正月に始められ、櫓・御殿・城門などには一国一城令で廃城になった伏見城・三木城高砂城・船上城・枝吉城などの資材が解体使用された。1620年に城は完成し、本丸の四隅には三重櫓が建てられていたが、天守は天守台のみで建てられなかった。こうして小笠原氏の居城となったが、忠真は1632年に豊前小倉城に加増転封となった。その後6ヶ月間、姫路城主本多氏に預けられた後、戸田松平氏・大久保氏・藤井松平氏・本多氏・越前松平氏(直良流)と変遷して幕末まで存続した。

 明石城は、明石駅前にそびえる比高20m程の段丘先端部を利用して築かれた城である。現在は公園となっており、本丸南側の2つの隅櫓が現存している。幕府の特命で築かれた城だけあって、豪壮な総石垣の城となっている。段丘上には西から順に本丸・二ノ丸・東ノ丸を並べ、本丸の西側には腰曲輪である稲荷曲輪を築き、これらの南側に広い水堀で囲まれた三ノ丸を置いている。本丸~東ノ丸の北側には天然の谷戸を利用したと思われる桜堀があり、その北側の丘陵部にも捨曲輪として北ノ丸が設けられている。本丸は前述の通り天守台を備え、東の二ノ丸との間に大堀切を穿ち、土橋で連結した大手虎口を設けている。本丸北側には搦手虎口がある。本丸内には柿本人麻呂を祀ったという人丸塚があるが、塚が本丸にあるのは近世城郭では珍しい。二ノ丸と東ノ丸は高低差がない地続き地形で、食い違い虎口を有した仕切り石垣で分割しているだけである。東ノ丸の東前面には堀切兼用の東大手虎口が築かれている。各城門は厳重な枡形虎口となっており、三ノ丸南東のものは二重枡形を形成している。南西には枡形虎口がそのまま駐車場入口として利用されている。北ノ丸は、自転車競技場や文化施設が建てられて破壊されているが、遊歩道脇の林の中に石垣と土塁で形成された枡形が残っている。明石城は、段丘辺縁部の急崖を効果的に利用しており、高い石垣群と相まって見事な姿を残している。ただ残念なのは、城址に関する看板・標柱が全くと言ってよいほど無く、全然地元から愛されていない城という印象を受ける。また夏場の訪城でもあったため、石垣に雑草がかなり生えており、破損の心配もある。せめて除草剤を定期的に散布して雑草の侵食を防ぐとともに、各所に解説板を建てるだけの愛着は持ってほしいと感じた。
天守台→IMG_7474.JPG
IMG_7487.JPG←坤櫓

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.652636/134.991717/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平山城
nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

兵庫城(兵庫県神戸市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7327.JPG
 兵庫城は、戦国末期に池田恒興が築いた城である。恒興は織田信長の乳兄弟で、その関係から信長より特に親しく遇せられた。恒興は1580年、信長に謀反を起こした荒木村重の籠る花隈城を攻め落とし、その功によって兵庫の地を拝領した。これに伴い、兵庫はそれまでの室町幕府の権力や東大寺・興福寺等の寺社勢力との関係から脱し、信長の支配下に入った。これを機に1581年、恒興は花隈城を廃し、その遺材も加えて新たに天守を備えた兵庫城を築いた。信長横死後の1583年、恒興は美濃大垣城へ移封となり、兵庫城は羽柴秀吉の直轄地となった。1617年、尼崎藩領となると兵庫陣屋と呼ばれ、奉行が置かれた。その後、1769年に幕府の直轄領となり、大坂奉行所に属して与力や同心の勤番所が設けられ、大坂谷町代官支配となった。1868年(明治元年)、明治政府はここに兵庫鎮台を置き、間もなく裁判所、県庁と変遷した。

 兵庫城は、海陸の物資の集散地であり、湊川の支流と分水路が天然の堀を成す交通の要衝に築かれた。現在の切戸町・中之島の付近で、東西・南北各々約140mの規模で、周囲には幅3.6mの堀が廻らされていたと言う。しかし明治初期に市街化のため土塁は削られ、開削された兵庫新川運河が城の中心部を貫通し、遺構は大きく破壊された。従って現在は見るべき遺構はなく、運河西側の遊歩道に石碑と解説板が立っているだけである。今となっては幻の城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.665273/135.172563/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

高砂城(兵庫県高砂市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7245.JPG←城跡の高砂神社
 高砂城は、播磨梶原氏の居城である。元々は室町時代に杉岡蔵人によって築かれたと伝えられる。 杉岡氏は播磨守護赤松氏に属しており、嘉吉の乱の際に小松原城主小松原永春と共に赤松満祐の元に馳せ参じたと言う。その後、梶原氏が城主となり、赤松氏の水軍の将を務めて赤松晴政の淡路国脱出を支援したり、一族を馬廻として出仕させるなど、戦国期まで赤松氏に従った。播磨梶原氏は「景」を通字にしている通り、鎌倉幕府創業の功臣梶原景時の裔を称した。梶原景秀が城主の時、織田信長の部将羽柴秀吉による三木合戦となり、景秀は三木城主別所氏の麾下として高砂浦を守備し、後詰めの役を果たした。毛利氏や本願寺顕如は、この高砂城から三木城への軍兵・兵糧米の陸揚げを計画していたと言う。しかし黒田官兵衛孝高の仲介により景秀は秀吉に帰順し、高砂の本領を安堵されたと見られる。1580年には秀吉の命により高砂城は一旦破却された様である。関ヶ原合戦後に池田輝政が姫路城主になると、播磨の海の守りを固める為に1612年に近世高砂城を新たに築き、家臣の中村主殿助正勝を高砂城主として城下町を整備した。その後、元和の一国一城令によって高砂城は廃城となった。

 高砂城は、現在の高砂神社の地にあったとされる。しかしこれは池田輝政が築いた近世高砂城で、梶原氏の中世高砂城がどこにあったのかは明確ではない。小松原城の近傍にあったとも、高砂神社の北西にあったとも、或いは梶原の城の跡に近世高砂城を築いたとも言われ、諸説あって確定できないのが実情である。いずれにしても、市街化で城の遺構は完全に湮滅している。城より高砂神社が立派で、比較的広い境内には松が多数植わっており、社殿や山門も素晴らしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.743825/134.803576/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:近世平城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

加古川城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7242.JPG←称名寺周辺の水路は堀跡か?
 加古川城は、羽柴秀吉が播磨平定の為、播磨の領主達を集めて行った加古川評定が行われた城である。この地の豪族糟谷(糟屋)氏の居城で、糟谷氏は源平合戦の際に平家追討に功のあった糟谷有季が、源頼朝から播磨国印東郡南条郷を与えられ、糟谷有数のとき加古川城を居城としたとされる。南北朝期~戦国期には播磨守護赤松氏、赤松氏衰退後は別所氏などに仕えた。加古川城が歴史の表舞台に出るのは、前述の通り加古川評定の時である。1577年、羽柴秀吉は織田信長の命で中国攻めの序戦として播磨攻略に取り掛かった。初めて播磨に入った秀吉は、加古川城(糟屋の館)に入り、播磨の領主達を参集して毛利討伐の軍議を行った(加古川評定)。この時、三木城主別所長治は自身は参上せず、代理として叔父で反織田派の別所賀相(吉親)を派遣した。この賀相が評定において秀吉と衝突し、帰城後に長治を説得して別所氏を織田方から離反させた。これを契機として一旦は織田方に付いた播磨諸豪は動揺して毛利方へ相次いで寝返るなど、情勢が一気に緊迫した。姫路城に進出していた秀吉は周囲を敵性勢力に囲まれる形となり、官兵衛の進言に従って圓教寺に入り、白山城を築いて本陣とした。この時、加古川城の糟谷氏では、時の12代城主武則が黒田官兵衛孝高の推挙により秀吉に仕え、以後一貫して秀吉の幕下で活躍した。武則の兄朝正は別所側に立って三木城に入った。別所氏麾下の反織田勢力は、神吉志方高砂・野口・淡河・端谷の6城主は各自の城を堅守し、他の小城主は三木城内に籠城した。織田方は大軍勢を播磨に派遣して、別所方の諸城を各個撃破した。この時、加古川城は織田方最前線の重要な兵站拠点となった。最後に残った三木城には秀吉が厳重な包囲網を構築して、「三木の干殺し」と呼ばれる過酷な籠城戦となった。この三木合戦において、糟谷武則は箕谷ノ上付城に布陣して活躍したと言う。後に武則は秀吉の小姓頭となり、賎ヶ嶽七本槍で功名を挙げ、加古川城主として35,000石を与えられた。武則の子宗孝は、1615年の大阪夏の陣で豊臣方として籠城し、討死した。同年6月、加古川城は破却された。

 加古川城は、現在の称名寺一帯にあったと言う。加古川の南岸に位置し、近くには山陽道(現国道2号線)が通っていることから、加古川の渡河点を押さえる要衝であったと考えられる。付近一帯は完全に市街化されており、遺構は完全に湮滅している。わずかに寺の周囲に水路があり、往時の堀跡であった可能性が推測される程度である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.768595/134.830420/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平城
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

神吉城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7205.JPG←本丸跡の常楽寺
 神吉(かんき)城は、この地の土豪神吉氏の居城である。神吉氏の出自には諸説あるが、播磨守護赤松氏の一族であるとされる。少なくとも『太平記』に多数登場する赤松氏の一族郎党の中には神吉氏の名は見えないので、太平記以後の時代に分出された庶家の様である。戦国期には、三木城主別所氏と代々気脈を通じており、1578年2月に別所長治が突如織田方から離反すると、神吉城主神吉民部大輔頼定も別所氏に呼応して神吉城に立て籠もり、志方城・野口城と共に織田勢の大軍の攻撃を受けた。『信長公記』によれば、織田勢は信長の嫡男織田信忠を筆頭に、その弟神戸信孝、重臣の林秀貞、細川藤孝、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、荒木村重などそうそうたるメンバーが率いた約三万の大軍に対し、頼定はわずか千名ほどの城兵で果敢に抵抗し、何度も攻撃を撃退したと言う。しかし衆寡敵せず、織田勢の総攻撃を受けて頼定は討死し、神吉城は落城した。尚この際、西の丸を守備していた頼定の叔父神吉貞光(藤大夫)は、荒木村重・佐久間信盛が藤大夫の詫言を取次いで奔走し、志方城降参の説得を条件に助命され、志方城へ退去したと言う。

 神吉城は、常楽寺の地に本丸があった。周辺は全て市街化し、遺構は完全に湮滅している。『信長公記』の記載によれば、中の丸(本丸)・東の丸・西の丸で構成され、中の丸には天守も上げられていたと言うが、往時の面影はほとんど失われている。本丸跡の常楽寺境内は周囲より3~4m程高くなっており、往時の地勢を僅かに残しているに過ぎない。尚、常楽寺本堂裏の墓地には城主神吉頼定の墓があるが、非常に立派な墓所である。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.795083/134.829519/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

志方城(兵庫県加古川市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7194.JPG←墓地に残る本丸土塁跡
 志方城は、赤松氏の重臣櫛橋氏の居城である。櫛橋氏は伊朝を祖とするが、その出自には諸説あって明確にできない。櫛橋氏の名が現れるのは南北朝期で、観応の擾乱における摂津打出ヶ浜の合戦の後、敗北して自刃を覚悟した将軍足利尊氏と執事高師直以下の高一族と共に、赤松範資(赤松円心の嫡男)の郎党の中に櫛橋三郎左衛門伊朝の名が、太平記巻29に見える。いずれにしても播磨守護となった赤松氏に代々仕えた。嘉吉の乱で赤松氏が滅び、その後赤松政則が赤松氏を再興して播磨を回復すると、櫛橋左京亮則伊は政則の股肱の臣として活躍し、祖父の例にならって播備作三国の財産出納の役を務めた。櫛橋氏は代々天神山城を居城としていたが、1492年に則伊が志方城を築いて居城を移したとされる。その後、伊家・伊定・政伊と続いた。1578年、三木城主別所長治が織田方から離反すると、櫛橋氏は別所氏に呼応して志方城に立て籠もった。しかし同年8月、羽柴秀吉の攻略にあって落城し、櫛橋氏は滅亡した。尚、伊定の娘・光(てる)は秀吉の名参謀として活躍した黒田官兵衛孝高の妻となり、嫡男長政(後の福岡藩主)を産んだ。

 志方城は、周囲を低地帯に囲まれた低台地に築かれている。南端に本丸、その北に二ノ丸、西側に西ノ丸を築いていたとされる。市街化で遺構はかなり改変されてしまっている。本丸は観音寺の境内となり、周囲に段差5m程の切岸が散見され、北の墓地裏に土塁跡が確認できる。切岸下には堀跡の名残も残っている。二ノ丸は志方小学校となり、西ノ丸は民家が立ち並んでいて遺構は完全に湮滅している。結局城跡らしさを残すのは本丸だけだが、市街地中心部の城の現況としては、それでも良しとすべきであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.818075/134.822266/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

白山城(兵庫県姫路市) [古城めぐり(兵庫)]

IMG_7133.JPG←平場周囲に残る土塁
 白山城は、名刹として名高い書写山圓教寺の境内に、1578年、羽柴秀吉が播磨平定戦の最中に一時期本陣を置いた陣城である。その前年の77年、秀吉は織田信長の命で中国攻めの序戦として播磨攻略に取り掛かった。御着城主小寺政職の家老の姫路城主黒田官兵衛孝高は、織田方に付くことを政職に進言し、更に播磨に入った秀吉に姫路城を明け渡し、播磨の諸豪族にも織田方に付くことを説いて回っていた。その甲斐あって、短時日の内に播磨をほぼ平定し終えた秀吉であったが、翌78年2月、突如三木城主別所長治が織田方から離反し、これを契機として一旦は織田方に付いた播磨諸豪は動揺して毛利方へ相次いで寝返るなど、情勢が一気に緊迫した。周囲を敵性勢力に囲まれる形となった秀吉は、官兵衛の進言に従って圓教寺に入り、山上の十地坊に白山城を築いて本陣とした。これは、陣を構えるに好適な要害であり、また多数の兵の収容が可能で兵糧の確保が容易な大寺院であった為とされる。その後、戦況の推移に従って平井山に本陣を移すまで、白山城が秀吉の本陣となった。
 尚、圓教寺側ではこれを「秀吉の乱入」と称している。それは、秀吉が守護使不入の圓教寺の荘園27,000石を全て没収し(後に500石のみ施入された)、摩尼殿の本尊・如意輪観音像など多数の仏像・寺宝を奪い取り、自身の本拠近江長浜城に持ち去ってしまったからである。また兵たちによって僧坊は壊され、寺域は大いに荒らされた。寺からすれば、いわれのない暴挙であったろう。この様に、織田軍の各地での暴虐は、戦国乱世の常識からしても常軌を逸した破壊的なものであった。

 白山城は、圓教寺の大講堂裏の書写山山頂部に築かれている。ここは白山権現が祀られていることから白山とも呼ばれている。前述の通り、往時は十地坊と言う僧坊があった。平坦な平場となっており、現在は給水施設が建っているので改変を受けているが、平場の周囲には土塁の跡が明瞭に残っている。また土塁の外側周辺にも、幾つかの平場群が確認でき、虎口状の地形も見られる。しかし秀吉が率いていた兵数は万単位であり、とても山頂の平場群だけで収容することはできなかったであろう。実際、書写山ロープウェイの山上駅から圓教寺まで登る途中、土塁で囲まれた平場や段曲輪状の平場が散見され、山内全域に兵が駐屯していたと考えられる。山頂からは再興赤松氏の居城置塩城が望め、播磨中世史の転機となった歴史的な場所である。
圓教寺への途上に見える土塁囲郭→IMG_6982.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/34.893209/134.655390/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

76年前 [雑感]

76年前の今日、戦争が始まった。
最近では、このことを大きく取り上げないマスコミも多い。

国と国民を奈落の底に突き落とす戦争になぜ日本が突き進んだのか?
なぜ開戦を、多くの日本人が支持し、賞賛したのか?
その総括はいまだ十分にされないまま、時だけが過ぎ去り、
この国民は過去への反省を忘れようとしている。

この国民の暴走で、どれほどの災厄をアジア・太平洋地域に撒き散らしたのか。
日本人は、もう一度そのことをよく思い直した方が良い。
nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | -
メッセージを送る