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梁川宗元屋敷(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4397.JPG←標柱の建つ屋敷地
 梁川宗元は、白石宗直の3男である。白石宗直は、元々梁川宗清の子であったが、岳父である白石宗実の養子となってその後を継ぎ、水沢城主となり、後に寺池城に転封となって登米伊達氏の初代となった。この為、宗直の3男又四郎宗元が、祖父梁川の姓を継ぎ、米谷村北方の鱒渕村・狼河原村143貫文を領し、米谷村吉田に屋敷を構えた。その後、治水・灌漑工事に力を尽くしたが、1640年に34歳の若さで没した。宗元の長男百助がまだ3歳だったため、仙台藩2代藩主伊達忠宗が宗元の妻(原田甲斐の姉)に自分の所に来るように勧めたがこれを断った。2年後に栗原郡の上遠家に後妻に入ると、これを聞いた忠宗は怒り、梁川家を断絶とし、百助はお預けの身となったと言う。

 梁川宗元屋敷は、国道346号線沿いに標柱が建っている。高荒神山南麓の谷戸部に当たり、現在民家が建っている一帯に屋敷が建っていたものだろう。宮城県遺跡地図には記載がないことから、遺跡とは認定されていない様だ。たまたま通りかかって標柱を見つけた次第である。尚、ここから北東2.4kmの位置にある頼光寺に、梁川宗元夫妻の墓がある。珍しい宝篋印塔で、「隅飾(すみかざり)」と呼ばれる角の突起の部分に、○・十字・◇等のマークが刻まれている。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.738921/141.306496/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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米谷城(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4339.JPG←本丸から張り出した櫓台
 米谷城は、伊達氏の重臣桑折新左衛門景頼(石母田景頼)の居城であった。元々米谷の地は、1276年に葛西清信が石巻日和山城に入部した際、その家臣亀卦川氏の一族、亀卦川胤氏が米谷に入部して居城を築いたことに始まる。亀卦川氏は、奥州千葉氏の庶流で、後には米谷を本拠とした米谷亀卦川氏と大原新山城を居城とした大原亀卦川氏の2流に分かれている。米谷亀卦川氏は米谷氏を称したともされ、米谷氏時代の居城は南の鼎楯であったとも、また大膳楯であったともされ、明確にはわからない。1590年、14代亀卦川(米谷)常親が当主の時、奥州仕置で葛西氏が改易され、その後の葛西大崎一揆が鎮圧されて、米谷亀卦川氏は滅亡した。この時には、既に米谷城の地に居城が移されていたとも言われている。その後、葛西・大崎氏の旧領が伊達政宗に与えられると、1594年にその重臣石母田景頼が入部した。景頼は、後に桑折氏の後見となって桑折景頼となり、婿養子の石母田大膳宗頼に家督を譲り、宗頼が米谷城主となった。その後1616年に、柴田宗朝が水沢より米谷城に移封となった。元和の一国一城令で城が廃されると、米谷城は「所」(「要害」より一段下のランク)となった。宗朝の後を継いだ柴田外記(朝意)は、寛文事件(いわゆる伊達騒動)において江戸で斬られて落命した。1681年、柴田宗意が船岡要害に移封となると、米谷所には一時日野元信が入った後、1703年に登米郡黒沼から高泉兼康が2700石で入封した。そのまま高泉氏の所領として幕末まで存続した。城内には、現在でも高泉家の居宅が建っている。

 米谷城は、大膳楯のある丘陵から一つ北側にある比高40m程の丘陵上に築かれている。前述の通り、高泉様の私有地であるので、遺構を見て回るには高泉様の許可が必要である。私が訪城した時は、たまたま高泉様のご当主がご在宅で、出掛ける間際のお忙しい中なのに、わざわざ10分程もお話を伺うことができ、ご当主がまとめた貴重な資料をいただくこともできた。

 以下は高泉様から伺った話。現在居宅が建っているのは侍詰所に当たり、本丸は上の平場である。これらの配置は、江戸時代の絵図面でほぼ確認できる。本丸の東に高台があるが、これは戦国時代に使われていたもの(中世の主郭跡)で、調査はされていないと言う。今は城の西下を車道が貫通しているが、昭和に入ってから西側を削って車道を通したもので、往時は城の防衛のため道を通さないようにしていた。また明治期に、北上川の護岸工事のために、城の石垣がだいぶ取り壊されたらしい。城の周りには、東に寺、南に神社などを配置しているが、これらは全て風水を考えてのものではないかとのこと。米谷の地名は、坂上田村麻呂がその家臣米谷氏を置いたことに始まると言い伝えられているそうだ。

 遺構としては、近世本丸跡(中世の二ノ郭)の広い平場があり、南の切岸下に侍詰所の平場があり、高泉様の居宅が建っている。近世本丸から侍詰に向かって櫓台の張出しが見られる。また近世本丸の東側に切岸で囲まれた段丘があり、これが中世の主郭跡である。背後に当たる東側に城道が残っているが、主郭内は薮で埋もれていて進入は不可能である。この他、中世主郭の南側に竪堀状の窪地や腰曲輪と思われる段々の平場があり、居宅の東側高台の広い平場まで繋がっている。中世主郭の東側は給水施設や学校に変貌して大きく改変されているので、旧状は不明である。
 米谷城は、多種の改変を受けているが、概ねは旧状をよく残しており、中世から近世まで継続的に使われた城の名残を感じることができる。いろいろと貴重なお話や資料を提供していただけた高泉様にも、この場を借りて厚く御礼申し上げます。
主郭南の腰曲輪群→IMG_4365.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.712187/141.294994/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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大膳楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4314.JPG←畑となった主郭
 大膳楯(大膳館)は、慶長年間(1596~1615年)に伊達氏の重臣石母田大膳宗頼の居館があったことからこの名が付いたという。(米谷城を有事の際の詰城とし、大膳楯を平時の居館としたものか?)その他の歴史は不明であるが、一説には、1276年に米谷に入部した亀卦川胤氏が最初に築いて居城としたのが、大膳楯であったとも言われているらしい。
 大膳楯は、鼎楯と尾根続きの丘陵上に、隣接して築かれている。比高50m程の丘陵頂部が主郭であったと思われるが、一面の畑に変貌しており、遺構は不明。その他には、北西に向かって段状に畑と藪が続いているだけである。標柱がなければ、誰も城跡とは思わないであろう。

 お城評価(満点=五つ星):☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.708989/141.294823/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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鼎楯(宮城県登米市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4305.JPG←主郭東側の切岸
 鼎楯(鼎館)は、別名を不叶館とも言い、歴史不詳の城である。米谷城の前身となった古館と言われ、伝説では豪族が館を建てようとしても、完成間近になると何度も崩れてしまい、結局築城できなかったことから不叶館と呼ばれるようになったと言う。

 鼎楯は、北上川(往時は二股川)曲流部東岸の、秈荷神社の建つ比高50m程の丘陵上に築かれている。秈荷神社の東側の一段高い平場が主郭とされ、公園となっている。平場の東側には切岸や虎口らしい地形が見られ、遺構と推測される。また神社付近や車道脇にも平場が散見され、腰曲輪の遺構であるらしい。堀切などは見られないため、どこまでが城域なのかわかりにくいが、宮城県の遺跡地図によれば東に続く墓地や少ピークも城域とされる。しかし改変が激しく、よくわからないのが実態である。個人的には、ほぼ単郭の小規模な城砦であった様に推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.708152/141.291239/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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鷲ノ巣楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4178.JPG←三ノ郭から落ちる竪土塁
 鷲ノ巣楯(鷲ノ巣館)は、歴史不詳の城である。伝承では、葛西氏の家臣平小三郎が城主であったとされる。平小三郎についての詳細は不明であるが、真野萱原にある長谷寺のお堂を中世末期に修復したのが、平小三郎らであると伝わっていると言う。

 鷲ノ巣楯は、真野川の北岸にそびえる標高71mの丘陵上に築かれている。連郭式の城で、西から順に主郭・二ノ郭・三ノ郭を連ね、それぞれの間を堀切で分断している。一番広い曲輪が主郭で、半分ほどが墓地となって改変されているが、山林の中に分け入ればその他の遺構はほぼ完存している。主郭の北東部には、『日本城郭大系』で石塁とされるL字状の高まりがあり、砕石が散乱している。主郭外周には腰曲輪が築かれ、北側の腰曲輪はそのまま二ノ郭・三ノ郭の腰曲輪まで繋がっている。特に三ノ郭北側では広幅の腰曲輪となり、北辺に土塁が築かれ、更に下方に帯曲輪が築かれている。前述の堀切は、この腰曲輪に繋がっており、南北の腰曲輪を繋ぐ城内通路としても機能したと思われる。また二ノ郭、三ノ郭には土塁が備わり、三ノ郭南東角から南に大きな竪土塁が降っている。その横には大きな竪堀があり、『日本城郭大系』ではこれを通路としている。この竪堀の上方には、三ノ郭の切岸がそびえ立っており、竪堀状通路を登ってくる敵兵を迎撃する陣地であったことがわかる。三ノ郭から東に伸びる尾根上にも外郭がつながっており、堀切や切岸が数ヶ所見られ、その東の小ピークには綺麗に削平された物見曲輪があり、西端に小型の櫓台まで備わっている。
 鷲ノ巣楯は、主郭周辺のみ藪が多く遺構が確認しづらい部分もあるが、二ノ郭・三ノ郭付近は歩きやすい。三ノ郭から落ちる大きな竪土塁が特徴的な城である。
腰曲輪から見た二ノ郭・三ノ郭→IMG_4136.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.458798/141.345785/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
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水沼楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_4025.JPG←主郭前面の虎口兼用の堀切
 水沼楯(水沼館)は、歴史不詳の城である。一説には水沼上野という武士の居城であったとも言われるが、確証はない。

 水沼楯は、上品山の支尾根が南東に張り出した、比高50m程の丘陵上に築かれている。『日本城郭大系』の縄張図では一つ北の丘陵地にある様に記載しているが、位置が間違っている。宮城県の遺跡地図の記載が正である。城に行くには、主郭のあるピークの北東にある谷戸に登り道が付いており、そこから到達できる。非常に綺麗に整形された城で、縦長の広やかな主郭の東西に2段ずつ腰曲輪が築かれ、主郭背後には堀切を介して小さな二ノ郭があり、更に堀切が穿たれている。主郭前面に当たる南側にも、前衛郭群が数段築かれている。この城では面白いことに、主郭の前面と主郭後部に穿たれた浅い堀切が腰曲輪への虎口を兼ねており、城内通路として使われている。前衛郭群には、堀切と独立堡塁が築かれて南の大手筋を防衛している。この他、北尾根の鞍部には湧水があり、どうも水の手曲輪であった様だ。水沼楯は、主郭内部と東側の腰曲輪は藪が多いが、それ以外は藪が少なく、遺構が綺麗に見渡せる。特に西側の腰曲輪は見通しが良く、主郭切岸など美しい姿を見せており、登城も楽でお勧めである。
腰曲輪と主郭切岸→IMG_4001.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.485744/141.373401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世山城
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鶴楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3937.JPG←堀切
 鶴楯(鶴館)は、鶴子坂館とも呼ばれ、歴史不詳の城である。伝承によれば、前九年の役の際に八幡太郎源義家が館(本陣であろう)を構え、東に高くそびえる京ヶ森楯に立て籠もる安倍貞任を攻め立てたと伝えられるが、同様な話は東北の各所にあり、俄には信じ難い。

 鶴楯は、沼津貝塚の西にある標高48mの丘陵上に築かれている。遺構はささやかで、城域東部の八幡神社周辺に腰曲輪と思われる平場群が展開し、神社裏手にはわずかに土塁らしいものも見られる。そこから西へ丘陵をたどっても、自然地形がダラダラと続くだけである。一部に切岸と段差が見られるが、古い航空写真を見ると耕作地になっていた部分もあるようなので、その名残かもしれない。更に西に進むと、丘陵中央部の手前に堀切が穿たれている。堀切に沿って土塁が築かれ、丘陵頂部には主郭と思われる平場があり、僅かな段差で周囲の曲輪と区画されている様である。遺構から推測すると非常に古い形態の城と考えられ、源義家が本陣を置いたという伝承も、全く故無いことではないのかもしれない。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.446346/141.373401/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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糠塚城(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3891.JPG←土塁を伴った腰曲輪
 糠塚城は、葛西氏の家臣須藤勘解由左衛門の居城と伝えられている。須藤氏は、北上川下流域一帯を支配した山内首藤氏の一族とされるが、詳細は不明。糠塚城の歴史も不明点が多いが、唯一歴史に現れるのは、「須江山の惨劇」と呼ばれる事件においてである。1590年、小田原の役に不参しなかったため、奥州の名族葛西氏・大崎氏は豊臣秀吉の奥州仕置によって改易された。しかしその旧領を与えられた秀吉の家臣木村吉清・清久父子は、統治能力の欠如から圧政を敷き、葛西・大崎両氏の旧臣たちの叛乱を誘発してしまった。しかしその裏には、失地回復を目論む伊達政宗の煽動があったとされる。それが露見しかかって秀吉への釈明に追われた政宗は、許されて秀吉の命で一揆鎮圧に向かうと、証拠隠滅を図るために佐沼城に立て籠もった最後の一揆勢を女子供に至るまで撫で斬りにしたとされる。その後、徹底した残党狩りを行い、一揆の主だった者達を謀略によって桃生郡須江山の糠塚館に呼び寄せ、残らず惨殺した。これが須江山の惨劇である。こうして証拠を残らず消し去った政宗は、出羽・会津の本領を没収されたが、一揆の責任を問われて改易となった木村氏に代わって、葛西・大崎の旧領13郡を与えられた。

 一方、糠塚城の地は、古代城柵の一つ、中山柵であったとも言われている。804年、蝦夷征討の為、武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野・陸奥等の国から糒・米を陸奥国小田郡中山柵に運ばせたと『日本後記』にあり、その擬定地として糠塚城の地が有力視されている。

 糠塚城は、JR石巻線の佳景山駅のすぐ南にそびえる、標高37m、比高30m程の丘陵上に築かれている。主郭には配水場(既に廃止されている)があり、改変を受けている。配水場南側に大きな石碑と解説板が建っている。石碑は「中山柵跡」と刻まれ、文章が消えかけた解説板には、中山柵と糠塚城の両方の歴史が記載されている。明確な遺構は、付近の腰曲輪ぐらいであるが、低土塁を伴い、虎口らしい地形も確認できる。この他、南西中腹に祀られた神社の裏に、御子孫が建てた須藤勘解由左衛門の大きな墓が残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.497081/141.239204/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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塩野田楯(宮城県石巻市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3851.JPG←主郭裏の堀切
 塩野田楯(塩野田館)は、塩煮田城とも呼ばれる。この名は、古い頃にここで塩を作り、将士に供したところから、この名が伝わると言う。歴史も明確なことは不明であるが、城主は須藤勘解由左衛門、又は矢代斉三郎であったと伝えられている。須藤氏は、糠塚城主であったとも伝えられ、葛西氏に属していたと言われている。一方、石崎氏の系図によれば、石崎氏もまた糠塚城主であり、石崎勘解由左衛門の名が記録されていると言うが、須藤氏との関係は不明である。矢代氏については詳細不明である。

 塩野田楯は、舘の名が残る比高30m程の独立丘陵上に築かれている。頂上に八雲神社が鎮座しているので、登り道が付いている。神社が建っているのは外郭に当たり、北東に向かって土塁が伸びているが、積極的な削平は確認できず、自然地形のままらしい。一方、神社から堀切を挟んで主郭が築かれている。主郭は畑となっており、土塁は見られないが、北面から西面にかけて空堀が穿たれている。北面のものは前述の通り、外郭と分断する堀切となり、西面のものは西斜面を防御する横堀となっている。この手の小城塞には珍しい規模の空堀で、しっかりと穿たれている。西側の横堀の先端は枡形虎口が形成され、虎口北側は堀の土塁で防御、反対の南側は切岸で切り落として防御している。ここには西麓の民家裏からの小道が付いているが、状況から考えると往時の城道であったと推測される。主郭の南西にも平場が広がっており、二ノ郭と推測されるが、藪で形状の確認は困難である。遺構は以上で、小規模な城砦であり、出城としての機能に特化して構築されたと推測される。
西側の枡形虎口→IMG_3867.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.474540/141.248345/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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樋ノ口楯(宮城県東松島市) [古城めぐり(宮城)]

IMG_3806.JPG←北出曲輪の堀切
 樋ノ口楯(樋ノ口館)は、歴史不詳の城である。『日本城郭大系』では、城の西方0.5kmの位置にある鎌倉後期の2枚の板碑に長江氏の名が刻まれていることから、小野城主長江氏との関連を推測している。

 樋ノ口楯は、清泰寺南西の比高55mの丘陵上に築かれている。清泰寺の墓地から小道が付いているので、城の近くまでは簡単に行けるが、城域は藪がひどく、遺構の確認が大変である。縄張図を見ると基本的には単郭の城のようであるが、主郭は東西に長く伸びた不定形で、北側だけ土塁を伴っている。主郭から派生する2つの北尾根には、それぞれ堀切を介して出曲輪が構築され、特に東側の出曲輪は土塁で囲まれている。その他、腰曲輪も築かれているようだが、藪がひどくはっきりとはわからない。技巧性もなく、ただ広い丘陵を主郭にしているだけの城で、軍団の駐屯基地か兵站拠点の様な使われ方をした城かもしれない。尚、南麓に太郎坊清水と言う泉があり、往時の水の手でもあったことが推測される。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/38.444128/141.181097/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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