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中野城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9812.JPG←ニノ郭前面の二重横堀・三重土塁
 中野城は、上総北東部に武威を振るった土気酒井氏の、土気城以前の居城であったと言われている。酒井氏の出自は諸説あって明確ではない。一説には、土気酒井氏の祖酒井定隆は、元は遠江国の武士で、房総の地に移り住み、安房里見氏の支援によって中野城を築いたと言われる。しかし定隆は、太田道灌が千葉氏を攻撃した1478年の境根原合戦、翌79年の臼井城合戦の際、千葉孝胤・原胤房に与力していることから、安房里見氏の支援は疑問視されており、実際には千葉氏の勢力を背景として、上総武田氏に対する国境前線の守りとして中野城に封じられ、その後、土気城に進出したと考えられている。定隆は法華宗信仰が厚く、領内全ての寺院を法華宗に改宗させ、「七里法華」と呼ばれる宗教政策を行った。また定隆に迎えられた日泰上人は、旧中野城内に長秀山本城寺を開創して布教に務めたと言う。

 中野城は、現在も本城寺の境内となっている。浸食谷に面した段丘上に築かれており、寺のあるのが主郭で、外周の西・北・南の3面に土塁と空堀が延々と築かれている。城域は境内の外まで広がっていて、おそらく往時は複郭の城であったと思われるが、曲輪の区画は今では湮滅して明確ではない。しかし、仮に主郭の南をニノ郭とすると、ニノ郭前面の斜面上に二重横堀・三重土塁が残っており、大手前面の防御を担っていたと考えられる。しかしこの部分は民有地の山林らしく、2月下旬に訪城した時は一部の土塁が重機で破壊の真っ最中であった!(もう破壊され尽くしているかも。頼むからやめてくれ~!)この他、浸食谷をそのまま天然の空堀としている様だ。想像より、しっかりした遺構が残っており素晴らしいが、民有地部分の破壊だけは何とかしてほしい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.582100/140.265648/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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パソコントラブル、その後。 [日記]

先日発生したパソコントラブルだが、
症状自体は軽微だが、使い勝手上は最悪で、城歩きの計画作りにも支障が出るので、
仕方なく急遽新しいパソコンを買うことにした。

もともと、これまでのPCはもう7~8年も使ってきた古いVISTA機で、
途中、メモリーの増強やHDDの1T換装など、対策を講じて延命してきていたが、
さすがに最近は能力的に辛くなってきていたし、
来年にはVISTAのサポートが切れることから、
「そろそろ・・・」とは考えていたので、この機会に買い換えることにした。

新しいパソコンの方は、ようやく昨日まででほぼデータの移行や環境整備が完了し、
元通り使える環境が整った。

この作業の中で、もっとも困ったのが過去メールのデータ移行。
新しいPCのOSは当然Windows10なので、
Microsoft純正のメーラーも新タイプのものに変わっているが、
まさか古いPCの過去メールデータが取り込めないアホな仕様になっているとは
想像もしていなかったので、
エクスポートしたデータをインポートさせれば簡単にできると考えていた。

ところが!である。
なんと、MSのバカ、全く仕様の異なるメーラーに作り変えていて、
全然データ移行できないシステムにしてしまっていたらしい。
ネット上でいろいろ調べたが、やはりできないらしい。
(隠されているWindowsメールを、無理やり引っ張り出す荒技もあるらしいが、
 私のではうまくできなかった。)

そもそも新しいメーラーは、完全クラウド化されていて、
メールデータは全てMSのサーバー内に強制蓄積させられるらしい。
これでは私文書の秘匿もクソもあったものではない。

こうゆう、自社の都合ばかり考えて、ユーザー目線での製品づくりが欠落しているのは、
さすがにクソMSらしい。
Windows8の大失態に懲りず、またこれかよ!という感じ。

そんな問題ありまくりのMS標準メーラーは捨てて、
結局ブラウザーのFirefoxと同じMozillaで出しているThunderbirdを使うことにした。

設定してみたところ、Thunderbirdは予想以上に使い勝手が良くて、
メール中の語句を使ったネット検索でも、Firefoxと連携して一発検索してくれるし、
プロバイダメールだけでなくGmailアカウントの併用も可能になったし、
新しく付加されたカレンダー機能(Lightningと言うらしい)で、
googleカレンダーとの連携も可能になった。

これから出張なので、まだすぐには城巡りの記事更新はできませんが、
数日後には更新できると思いますので、今後共よろしくお願いします。
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パソコントラブルにつき・・・。 [日記]

皆様、いつも当ブログを訪問くださりありがとうございます。
本日パソコンが不調となり(兆候は先日からあったのですが)、ブラウザーソフトが立ち上がらなくなってしまいました。
復旧するまでの間、しばらくブログの更新をお休みさせていただきますので、
ご了承のほどお願い致します。

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立堀城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9735.JPG←南東角部の城塁と空堀
 立堀城は、歴史不詳の城である。一説には、千葉輔胤が一時本拠を置いた平山城(長谷部城)の出城であったとも言われるが明確ではない。
 立堀城は、支川都川の北岸の比高20m程の丘陵上に築かれている。北東に向かってすぼまった台形状の曲輪だけで構成された単郭の城であるが、城塁は5m程の高さを持つ規模の大きいもので、主郭の面積もこの手の城にしては異例に大きい。主郭は全周を土塁で囲み、更に全周に空堀を巡らして防御を固めている。主郭の塁線は西面と東面で僅かに歪んでいるようだが、ほぼ直線状の城塁のみで築かれている。南東辺にだけ張り出しの櫓台が築かれている程度である。土橋で接続された虎口は北東と南西の2ヶ所築かれているが、土橋への横矢は掛けられておらず、その面では戦国前期までの構築の様に思われる。主郭内部は倒竹地獄で進入は困難である。全体から受けた印象としては、軍需物資を集積した兵站拠点のような使われ方をした城の様に感じられた。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.573845/140.178552/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0

タグ:中世平山城
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栄福寺館(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9687.JPG←境内周囲の土塁
 栄福寺館は、平安時代後期に千葉介常重の家臣板尾五郎治の居館であったとされている。寺伝では、1130年に嫡子常長に付き添われてここより西にあった三角山に仮住居を設けて安住地を探し、翌31年にこの地に居城を移し、千葉氏の守護神妙見大菩薩を奉祀安置したと言う。栄福寺館のすぐ西方300mの位置に城山城があるが、両者の関係は明確ではない。

 栄福寺館は、現在栄福寺の境内になっている。城館跡であることを知らなかったが、城山城の帰りに何か城と関連する歴史があるかもと立ち寄ったところ、千葉氏との関連する歴史が残る寺で、境内の周りに土塁遺構の様なものも見られ、帰ってから調べたらやっぱり館跡だったというわけである。寺の石碑に寺伝が記載されており、その中に前述の歴史が記載されていた。周囲には土塁だけで堀跡がなく、城館の遺構であるかどうかは確実ではないが、ここでは一応遺構ということにしておきたい。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.594786/140.170999/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
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城山城(千葉県千葉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9590.JPG←西尾根の櫓台
 城山城は、歴史不詳の城である。元々この地は千葉庄池田郷に属し、平安時代後期には千葉介常重の家臣板尾五郎治が治めていたとされる。しかし一説には、江戸時代初期の寛永年間(1624~43年)の頃に板倉筑後守重直が築城したとも伝えられる。しかし元和の一国一城令が敷かれた後のことであり、史上疑問も多い。『日本城郭大系』では、東方300m程の位置にある板尾五郎治の居館(栄福寺館)の出城か、都川支流に点々と所在する城ノ腰城・立堀城・平山城と共に連携して機能した城との推論を紹介している。

 城山城は、支川都川の北岸の比高20m程の段丘先端に築かれている。南東の腰曲輪には現在、日枝神社が建っており、また城のすぐ北側には千葉東金道路が貫通し、城のすぐ脇まで車道が来ているので、訪城は容易である。しかし城自体は藪城なので、夏場の訪城は無理だろう。遺構はよく残っており、平坦で広い主郭とその北側に一段低い二ノ郭があり、周囲を腰曲輪で防御した構造である。二ノ郭北側には堀跡も残っている。主郭南東部に櫓台を備えた虎口が築かれている。主郭前面に当たる南側は堀底道を介して腰曲輪があり、腰曲輪の西から南にかけては横堀が穿たれている。この腰曲輪にも虎口があって、南に一段低い腰曲輪と繋がっている。一方、南東にも腰曲輪があって前述の通り日枝神社が建っている。神社裏手には土塁や主郭に通じる木戸口らしい地形が見られる。この他、主郭の東西にも腰曲輪があり、一部に土塁が築かれている。また西に伸びる尾根上にも遺構があり、櫓台や堀切、腰曲輪が連なっている。比較的小規模で、大した技巧性もない城であるが、遺構の残り具合は想像より良かった。
西尾根の堀切→IMG_9596.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.594297/140.167716/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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木出城(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9538.JPG←北辺の櫓台
 木出城は、歴史不詳の城である。地域としては千葉氏の勢力圏に属していたことから、千葉氏関連の在地領主の城と考えられているが、遺構から推測すると戦国後期のものと考えられることから、三船山合戦以後、反攻に転じた安房里見氏に対して、北条氏が築いた防衛の砦とも考えられよう。

 木出城は、比高15m程の段丘先端部に築かれている。ほぼ単郭の城で、民家裏の山林に遺構が眠っている。民家の優しい老夫婦に断れば、快く見学を承諾頂ける。北に700m程の位置にある福星寺館と構造がよく似ており、主郭はほぼ方形の曲輪で、外周には土塁が築かれて防御を固め、東西南北四辺に横矢掛かりの櫓台張出しを設けており、それに伴って外周の空堀を屈曲させている。外周の堀底から見た城塁は高さ4~5m程で福星寺館よりはやや規模が小さい。しかし主郭の面積は福星寺館より広く、主郭南にも外郭が広がっていて、堀らしい溝状地形が見られる。主郭には西と南に虎口が開かれているが、土橋はなくそのまま堀底に繋がっている。空堀自体が城内通路として機能したらしい。この他、台地の東側下方にも水堀跡らしい田んぼが残っている。横矢の発達や福星寺館との相互関係から推測すると、三船山合戦以後に里見氏の激しい攻勢に曝された北条氏が、防衛線維持のために築いた城砦と考えるのが妥当ではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.640540/140.196941/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=_ort&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世崖端城
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福星寺館(千葉県四街道市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9467.JPG←北辺の櫓台と空堀
 福星寺館は、歴史不詳の城館である。地域としては千葉氏の勢力圏に属していたことから、千葉氏関連の在地領主吉岡氏関連の城館と考えられているが(『図説 房総の城郭』)、遺構から推測すると戦国後期のものと考えられることから、三船山合戦以後、反攻に転じた安房里見氏に対して、北条氏が築いた防衛の砦とも考えられよう。

 福星寺館は、比高20m程の段丘先端部に築かれている。単郭の小規模な城館で、郭内は現在福星寺が建っている。主郭はほぼ方形の曲輪であるが、外周には高土塁が築かれて防御を固め、東西南北四辺の中間部に横矢掛かりの櫓台張出しを設けており、それに伴って外周の空堀を屈曲させている。外周の堀底から見た城塁は高さ6~7mにも及ぶ規模で、城の規模と比べると不釣り合いなほど厳重に防御されている。また東や南に虎口が開かれ、土橋が架かっている。空堀の外周にも一部土塁などが散見される。南に700m程しか離れていない木出城と構造がよく似ており、横矢の発達や厳重な防御構造から推測すると、三船山合戦以後に里見氏の激しい攻勢に曝された北条氏が、防衛線維持のために築いた城砦と考えるのが妥当ではないだろうか。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.646974/140.198271/&base=std&ls=std&disp=1&lcd=gazo4&vs=c1j0l0u0f0
タグ:中世平山城
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根古谷城(千葉県八街市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9373.JPG←天満宮裏に残る堀跡
 根古谷城は、千葉氏の重臣円城寺氏の居城である。円城寺氏は、原氏・木内氏・鏑木氏と共に「千葉四天王」と称される程、千葉宗家の中で勢力を持った一族で、享徳年間(1452~55年)に、根古谷城はこの円城寺氏によって築かれたと推測されている。しかし1455年、鎌倉公方足利成氏は、亡き父持氏の仇の子である関東管領上杉憲忠を謀殺し、関東を二分する大乱、享徳の乱が勃発した。この余波で下総では名族千葉氏に内訌が生じ、成氏方の康胤は、同族の小弓城主原胤房と共に、上杉方に付いた宗家千葉胤直・胤宣父子を攻め滅ぼし、宗家を乗っ取った。この時、円城寺氏も滅び、その後根古谷城は、粟飯原氏が城主となった様である。その後の歴史は不明であるが、1590年の小田原の役の際に落城したと言う。

 根古谷城は、弥富川南岸に南から突き出した比高10m程の台地上に築かれている。天満宮の境内が主郭に当たり、外周には土塁が築かれ、台地との間の南東側と南西側にそれぞれ二重の堀が穿たれている。主郭は天満宮が建っているところが高台になっていて、往時の櫓台の跡らしい。また北に向かって数段の平場に分かれており、最下段が屋号「要害」の民家となっている。主郭以外は宅地化で改変が進んでいるため、遺構はあまり明瞭ではないが、車道沿いに土塁らしい痕跡を一部に残している。城の中心から南西に500m程離れた位置に西御門神社があるが、ここもその名の通り西の木戸口を防衛する出砦であったと思われる。あまり期待していなかったが、主郭部は思ったよりも遺構が良好に残っている。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.637767/140.259340/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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岩富城(千葉県佐倉市) [古城めぐり(千葉)]

IMG_9280.JPG←主郭に残る土塁
 岩富城は、下総の名族千葉氏の重臣原氏の一族、弥富原氏の居城である。1470年頃に原左衛門尉景廣が築城したと言われ、以後子の胤行らが城主を務めた。弥富原氏も千葉宗家と共に小田原北条氏に属した為、1590年の北条氏滅亡と共に滅んだ。その後、玉縄北条氏の当主氏勝が、関東に入部した徳川家康より岩富1万石に封じられて城主となった。氏勝は、小田原の役の際には要衝の山中城主となって激戦の指揮をとったが、上方勢の猛攻の前に落城を免れず、自害しようとしたところを松田康長ら重臣達に説得されて城を脱出し、本拠の玉縄城に立て籠もった。その後、説得を受けて玉縄城を包囲した家康に降り、以後は家康に従ったものである。1614年、養子の氏重が下野富田城に移封となり、岩富城は廃城となった。

 岩富城は、鹿島川東岸の比高20m程の段丘上に築かれている。城域北西端に五角形をした主郭を置き、その周囲に二ノ郭などの曲輪を配している。現在明確に残っているのは主郭だけで、東側に土橋の架かった虎口を構え、外周を土塁で防御している。特に虎口部では土塁上の幅が広くなっており、櫓門が築かれていたことが想像される。主郭の東と南の空堀もはっきりと残っている。主郭東側が二ノ郭であったと思われ、段状に平場が築かれている。ニノ郭の北西斜面の下方に腰曲輪があり、主郭下方の腰曲輪との間は、空堀から落ちる竪堀で分断されている。この竪堀はどうも城内通路を兼ねていた様である。この他、本宿の地名が残る付近に方形の土塁の一部が残るらしいが、主郭以外の曲輪は宅地化されているので、確認はできない。城内はかなり改変されているが、教蔵寺北側に東から谷戸が入り込み、そこに古道が残っている。見るからに堀跡・虎口跡らしい地形で、搦手虎口だった可能性もある。いずれにしても、明瞭な遺構は主郭周りだけなのは惜しいことである。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/35.655448/140.235801/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
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