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小貫城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0389.JPG←主郭背後の土塁と堀切
 小貫城は、芳賀入道禅可の次男駿河守高家が築城したと言われている。築城年は不明とされているが、芳賀禅可は南北朝期に宇都宮氏の重臣として勇名を馳せ、将軍足利尊氏が弟直義を破った薩埵山合戦や、鎌倉公方足利基氏に抗戦した苦林野合戦で力戦している武将であるので、小貫城築城は南北朝期であろうと推測される。時代は下って1507年、小貫信高が城主の時、笠間城主笠間右京綱親に攻められ、一旦は宇都宮・芳賀両氏の救援を得て撃退したものの、後に綱親に再度攻撃を受け、信高は討死し小貫城は廃城になったと言う。

 小貫城は、逆川西岸に山稜裾野が張り出した台地上に築かれている。城域の東麓部と南側は民家や畑に変貌しているが、城の主要部は山林となっており、遺構が良く残っている。綺麗に作成され、しっかりした切岸で区画された曲輪群で構成されている。上段の主郭は、背後をクランク状の屈曲を持った土塁と中規模の堀切で防御し、前面も横矢掛かりを持った切岸で区画している。居住性のある広い曲輪であるので、城主の主殿があったと考えられる。主郭の南東部には竪堀状の窪地空間があるが、後世の改変でなく往時の遺構であるとすれば、大手の虎口跡であろうか。主郭の前面には二ノ郭があり、綺麗に整備された空地になっているが、二ノ郭の前面にも数段の腰曲輪が築かれている。一方、主郭後部には横長の三ノ郭があり、ここも背後に土塁と堀切を築いて防御しているが、横矢掛かりのない一直線状の土塁と堀切で、規模も主郭のものよりかなり小さい。この他、主郭背後の堀切の北端部には、北の沢筋(殿入沢と言うらしい)方面からの城道が通じていたらしく(往時は沢に木橋が架かっていたのだろう。現在も小橋が掛かっている)、堀切の下に内枡形の虎口が築かれている。基本的には居住性を持った居館を要害化した城で、よくその形態を残している。尚、北の民家脇から城に登るので、民家の方に立入りのお断りをする必要がある。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.429104/140.185032/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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飯村根古屋城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0304.JPG←主郭背後の二重堀切の内堀
 飯村根古屋城は、益子氏の家臣飯村氏の初期の居城である。1392年に飯村備前守則宗が当主の時、新たに飯村城を築いて居城を移したと伝えられている。しかし現在見られる遺構は戦国期のものと考えられ、飯村城へ移城後も有事の際の詰城として存続していたのではないかと思われる。

 飯村根古屋城は、飯村城から真東に750m程の位置にある比高35m程の丘陵先端部に築かれている。民家の真裏の山で、入山にはこの民家の方の了解をもらう必要がある。私が訪城した時は最初留守だったが、たまたま小母さんが帰宅したので、了解をもらって登城した。登り道を登っていくと、数段の腰曲輪群を経由して主郭手前まで達する。途中、城道は土塁で側方を画し、上方には塁線と櫓台があってそこから監視されている。この櫓台は、主郭周囲に廻らされた横堀外周の土塁上にある。主郭は急峻な切岸で囲まれ、南側に横堀を穿って防御している。主郭の虎口は、ちょうど前述の櫓台から横堀を挟んだ向かいにあり、位置関係から考えて主郭虎口と櫓台は木橋で連結していた可能性がある。また主郭横堀はこの櫓台を巻くように屈曲して横矢掛かりを設けている。主郭は後部1/3を土塁で囲んでおり、特に背面は高土塁で、その背後には稜線を分断する二重堀切が穿たれている。二重堀切の北側は急な斜面だが、南側は腰曲輪が築かれており、武者溜まり的な機能を有していたように思われる。この他、主郭の西側から南側にかけて数段の腰曲輪群を築いている。藪もあまりひどくなく、遺構もよく残っているので、規模は比較的小さいが見応えのある城である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.474203/140.179260/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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飯村城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0236.JPG←唯一明確な遺構、空堀と土塁
 飯村城は、益子氏の家臣飯村氏の居城である。1392年、飯村備前守則宗が築城して根古屋城から居城を移したと言われ、戦国末期に益子氏が主家宇都宮氏に反旗を翻して攻め滅ぼされた際、飯村城は廃城になったと伝えられる。

 飯村城は、逆川曲流部に張り出した比高15m程の台地上に築かれている。この台地上は宅地化などで大きく改変されており、城郭遺構はごくごく断片的にしか残っておらず、往時の縄張りを把握することも困難である。古い航空写真と照合すると、特別養護老人ホームが現在建っている部分が城内で一番高い位置に当たり、主郭であったと思われる。以前はここには学校があった様で、おそらく主郭の形状に合わせて校地を割り振っていたらしい。この主郭の東側には一段低く大楽寺や畑・ゲートボール場のある平場があり、腰曲輪であったと推測される。そのさらに東に一段低く民家があるが、ここがニノ郭であった様である。前述のゲートボール場から民家裏に回ると、唯一の明確な遺構である空堀と土塁が確認できる。またここには4基の五輪塔が建っている。この他、主郭の西側斜面にも段々の平場が見られ、おそらく往時の腰曲輪群であったと推測される。かなり遺構が湮滅してしまっているのが残念である。
西斜面の腰曲輪らしい段→IMG_0217.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.474220/140.170612/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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木幡城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0156.JPG←二ノ郭外周の空堀
 木幡城は、築城年代不明であるが、益子氏の家臣と推測される飯村内記の築城と伝えられている。戦国期には益子氏の支城であったとされ、北東1.6kmの位置には茂木氏の高岡城があり、境目の城として互いに対峙していたと推測されている。

 木幡城は、木幡集落の背後にある比高20m程の丘陵先端に築かれている。長円形に近い主郭の周囲に二ノ郭を環郭式に廻らしており、二ノ郭外周に空堀を巡らして台地基部と分断し、更に前面と右翼に腰曲輪を巡らした構造となっている。主郭と二ノ郭はいずれも藪が酷くてほとんど内部の確認ができない。そのため、主郭の北側は二ノ郭との間に空堀が穿たれているようだが、全く確認できなかった。二ノ郭外周の空堀は規模が大きい。空堀外周の土塁には、物見台と思われる小ピークが確認できる。二ノ郭の前面・右翼の腰曲輪群は、竹藪が伐採されてその姿を現しているが、重機で破壊的な伐採をしたようで、遺構の一部が破壊されてしまっている。かなり荒い整備の仕方で、城跡整備という感じではなく、今後の破壊が心配である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.499460/140.155098/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
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高岡城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_0077.JPG←3郭のL字型の空堀
 高岡城は、茂木氏の支城である。詳細は不明であるが、一説には茂木氏の隠居城であったと言われているらしい。南西1.6kmの位置には益子氏の木幡城があり、境目の城として互いに対峙していたと推測されている。尚、『日本城郭大系』『栃木県の中世城館跡』では北高岡城と呼称されている。

 高岡城は、比高40m程の丘陵上に築かれている。なだらかな丘陵地で、丘陵北西部は耕地化されているので、どこまでが城域であったのかは明確ではない。しかし畑が段々になっている部分もあり、外郭の曲輪群であった可能性はあるだろう。丘陵中央部に主郭があったと考えられ、西側には土塁を伴った腰曲輪が確認できるが、主郭内部は藪が酷く突入不能なので、主郭東辺部の遺構は未踏査である。主郭の周囲には派生する丘陵部に曲輪が置かれており、城歩きの大家余湖さんの表記に従うと、3郭(南西郭)の外周にしっかりとしたL字型の空堀と土塁、また4郭(南郭)には土橋の架かった堀切・土塁が確認できる。明確な遺構はこのぐらいである。この他、北西の日枝田ノ神神社は出城であったとも考えられ、南側に段状の堀切地形が確認できる。肝心の主郭部が踏査できないのが残念である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.510843/140.166750/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世平山城
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城峰城(栃木県茂木町) [古城めぐり(栃木)]

IMG_09986.JPG←主郭北側の帯曲輪群
 城峰城は、歴史不詳の城である。伝承によれば、時期不明であるが兵部卿和久某が築城したと言われ、南北朝期の1359年に結城氏と戦って敗れ廃城となったと言う。この伝承が確かだとすれば、南朝方(宮方)の城で、北朝方の下総結城氏に攻め落とされたということなのだろう。1359年といえば、将軍足利尊氏が没した翌年に当たり、2代将軍義詮が、尊氏の宥和政策から一転して南朝方に軍事攻撃を掛け始めた時であるので、そうした中央の情勢変化と連動していた戦いであった可能性もある。

 城峰城は、標高160m、比高60m程の山稜上に築かれている。南東麓の県道51号線脇は藪が伐採されて整備されているので、そこから直登するのが手っ取り早い。ここから登ると、南東の張り出した尾根の小ピークの先に僅かな浅い堀切があり、更に進むと南のピークに至る。明確な普請はされていないが、二ノ郭的な空間であったと思われる。ここから北に尾根を登っているクと、小規模な二重堀切があり、ここから主城域に入る。山頂に綺麗に削平された主郭を置き、周囲に数段の帯曲輪を廻らしただけの簡素な構造である。主郭北側には一段低い段があり、虎口郭であったと推測され、そのまま帯曲輪に接続している。帯曲輪群は北西方向に重点配置されていることから、北西の茂木城方面からの侵攻を想定して築かれたと推測される。小規模な砦だが、遺構は比較的明瞭で探索もしやすい。形態としては、伝承の通り南北朝時代の素朴な姿をそのまま留めていると思われる。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.518190/140.210996/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:中世山城
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小館楯(茨城県大荒町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9762.JPG←主郭北西の櫓台の張出し
 小館楯は、歴史不詳の城である。位置的には大掾氏と江戸氏の勢力圏の接壌地帯に当たり、両者のいずれかによって構築されたと推測されている。南には隣接して大館楯があり、小館楯より規模が大きい城であることから、大館楯を本城とし、その出城として小館楯が築かれていたのではないかと考えられる。

 小館楯は、涸沼東岸の比高17mの丘陵上に築かれている。大館楯とは谷戸を挟んだ独立小丘である。単郭の城で。全周を土塁で囲んだ小さな主郭の周囲に、横堀(一部は腰曲輪)を廻らしただけの簡素な構造となっている。しかし外周横堀に対する横矢掛かりや、南麓からの登城道が繋がる竪堀状虎口に対する前面の櫓台など、防御構造は厳重である。特に北面では櫓台が両翼で張り出して相横矢を掛けている。腰曲輪の削平は綺麗にされている他、竪堀状の虎口は2ヶ所に築かれて、大手虎口には櫓台を備えるなど普請はかなりしっかりしている。また主郭土塁に切れ目があるが、下に城道がないので、堀底に対する射撃口であろうか?
 小館楯は、単郭の小規模な城砦であるが、発達した横矢掛かりを持っている。藪も少なくて遺構の確認がしやすく、小兵力で効率よく守備できるように考えられた縄張りであることがよく分かる。
主郭南東の櫓台と横堀→IMG_9808.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.271110/140.530694/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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大館楯(茨城県大洗町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9731.JPG←主郭南側の横堀
 大館楯は、歴史不詳の城である。位置的には大掾氏と江戸氏の勢力圏の接壌地帯に当たり、両者のいずれかによって構築されたと推測されている。北には隣接して小館楯が築かれている。

 大館楯は、涸沼東岸の比高17mの台地上に築かれている。台地上に4つの曲輪を「田」の形に配置していたと推測され、曲輪内部は畑と藪になっている。北西の曲輪が主郭とされ、防備が最も厳重である。北辺・西辺・南辺の三方を土塁で防御し、北斜面には横矢掛かりを持った横堀、南から西にかけてもクランクした横堀を廻らしている。北東の曲輪が二ノ郭で、北面のみに土塁を築き、北斜面には主郭北側から繋がる横堀で防御し、隅櫓台が張り出して横矢を掛けている。南の三ノ郭・四ノ郭も、南辺等に土塁を築き、南斜面に横堀を穿って防御している。三ノ郭の南東には隅櫓台が張り出し、ここでも横堀に対して横矢を掛けている。また三ノ郭・四ノ郭の接続部南に、台地下からの登り道がついているが、これは往時の大手虎口だったと考えられ、側方に腰曲輪を伴い、南斜面に竪堀を落として防御している。各曲輪の辺縁部の土塁は、いずれも内側が絶壁型になっていて、おそらく畑にした際に削られたのだろう。遺構は比較的よく残っているが、斜面の遺構や主郭の空堀はガサ藪に覆われていて確認が大変である。大館楯は、小館楯と比べるとまとまった広さを有しており、それなりの兵力を駐屯させることができたと考えられる。
南斜面の竪堀→IMG_9650.JPG

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.269795/140.530200/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0

※東北地方と茨城北部では、堀切や畝状竪堀などで防御された完全な山城も「館」と呼ばれますが、関東その他の地方で所謂「館」と称される平地の居館と趣が異なるため、両者を区別する都合上、当ブログでは山城については「楯」の呼称を採用しています。
タグ:中世平山城
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Canon Ni-CdパックMAの内蔵バッテリー交換 [日記]

かつてのフィルム式の、いわゆる銀塩カメラが、その主役の座をデジカメやスマホに譲ってから既に久しいが、私は40年近く前の名機『Canon A-1』を実働状態で今でも保有している。今となっては貴重なこの銀塩カメラを、中世城郭のヤブ探索に引っ張り出すなどは論外としても、それ以外の場面でもこのカメラを持ち出すことはまず無く、ほとんどお蔵入りの状態となっている。しかし、唯一このカメラを使わないといけない場面があって、それがF1のようなレース観戦で連写機能が必要な時である(私はデジタル一眼は持ってないので)。今年は、アロンソとライコネンというスーパースターが、F1最後のシーズンになるかもしれないこともあって、相方と相談して鈴鹿の日本GPに行くことにしている。そこではモータードライブ付きのA-1に大活躍してもらう必要があるのだが、問題になるのはモータードライブの電源「Ni-Cdパック」の充電池の寿命切れである。

Ni-Cdパックというのは、当時の一眼レフA-1やAE-1 Program用に販売された「モータードライブMA」の電源パックの一種で、モータードライブMAの電源パックにはアルカリ単3乾電池12本(!)を使用する重量級の「バッテリーパックMA」(最高連写速度 秒間5コマ)と、はるかに軽量コンパクトで充電式の「Ni-CdパックMA」(最高連写速度 秒間4コマ)の2種類があった。販売されていた当時、Ni-Cdパックの方が値段は少々高かったのだが、貧乏学生だった私はアルカリ乾電池12本などそう簡単に買える身分ではなかったのと、さすがに乾電池12本使い捨ては忍びなく、充電再利用可能なNi-CdパックMAを購入して持っていた。
IMG_7810.JPG

しかし2012年のF1鈴鹿(小林可夢偉が3位表彰台をゲットしたレース!)を観戦した際、Ni-CdパックMAの老体に鞭打って連写した結果、内蔵のNi-Cd電池が完全に死んでしまったのである。何しろ買ってから30年にもなる古い充電池だから、酷使すれば死んじゃうのが当たり前だった。それ以後、モータードライブを(というかA-1自体を)使うことはなかったが、今回再び出番が来るので、Ni-CdパックMAをどうやって蘇生させるかが問題となった。

ネットで調べたところ、やはり今の世の中、自分で分解・交換している人がいて、そのHPを参考にして内蔵Ni-Cd電池の交換にチャレンジした。用意したのは、タブ線付きの単5型Ni-MH電池12本。1本当たりの容量300mAhなので、12本で合計3600mAh。これでどれだけのフィルム枚数を送れるかがよくわからないのだが(取扱説明書などを調べたが、バッテリー容量の記載がなかった)、3~40年前のNi-Cd電池と比べれば、まず電池容量が下回っていることはないだろうと思う。以下、備忘録として交換手順を残しておく。

交換は、まずNi-CdパックMAの分解からスタート。
①まずドライブ端子の側の表面鉄板を、ビス3本を緩めて外す。
IMG_7811.JPG

②この時、プラ製の黒ピンが、端子板の上に乗っているだけなので、失くさないように注意する。
IMG_7813.JPG

③次に本体の上蓋の取り外しの準備。背面左側にリモートコントローラー用のカニ目端子を緩める。

④本体上蓋の4本のビスの内、右側2本を外す。(左の2本は、分解には関係なかったのが後で判明)

⑤上蓋に掛かっているゴムの貼り皮を、破れないよう注意しながらマイナスドライバーをゆっくり差し込んで剥がす。

⑥これで上蓋は外れる。左側に爪が付いていて本体にハマっているので、右側から持ち上げていけば簡単に外れる。
IMG_7814.JPG

⑦白いのが内蔵されていたNi-Cd電池の固まり。タブ線付きの単5充電池12本を組み合わせている。容量などの記載がどこにもないので、元の電池容量は確認できなかった。
IMG_7816.JPG
+側をマーキングして配線を根本でカット。
※参考にしたHPとは電池に繋がる配線の色が違っていた。私のは、+:赤、-:黒 だった。
IMG_7815.JPG

⑧次に外した電池と形状を合わせるように、新しいNi-MH電池を仮組みし、タブ線を相方の電池にハンダ付け。この作業が一番めんどくさかった。

⑨電池を組み上げたら、強電屋さん御用達の自己溶着テープで絶縁を兼ねて回りをテーピングし、電池組み上げ完了。私はこの自己溶着テープ、結構重宝して使っている。このテープだけで、絶縁・防水・多少のクッション性、の3つの機能が賄えるので・・・。

⑩組み上げた電池末端のタブ線に、本体の配線をハンダ付け。この時、予定外のトラブル発生。ハンダ付けが中々うまく行かず、悪戦苦闘していたら、本体の-側配線が基盤から切れてしまった!配線が基盤につながっていた位置を写真取っておけばよかったのだが、記録が残っておらず。どこにつながっていたかわからなくなってしまった。ここでガックリして一旦作業中断orz

⑪翌日、気を取り直して配線作業に再チャレンジ。ルーペで基盤をじっくり見て、切れ残った配線の感じから、配線がつながっていたはずの端子を探り当て、ハンダで固定。これも狭いところでハンダ付けをするため、他の配線を熱で傷つけないように注意が必要なので、結構大変な作業。

⑫ようやく電池の配線繋ぎ込み完了。電池の末端端子部分にも自己溶着テープを巻いて絶縁。
IMG_7826.JPG

ケース内部のクッションは劣化しているので、新しいのと交換し(以前にカーオーディオに付属してきた両面テープ付きクッションスポンジを有効利用)、電池をケースに収める。こうゆう時、厚みと多少のクッション性のある自己溶着テープは、電池のズレ防止にもなって有り難い。
IMG_7824.JPG

⑬組立て。①~⑥の逆順で進めれば良い。

⑭次に試運転。A-1、モードラと組み合わせて、きちんと稼働することを確認。無事に充電池交換成功!

⑮最後にNi-CdパックMAを充電して作業完了。
IMG_8493.JPG
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網掛館(茨城県茨城町) [古城めぐり(茨城)]

IMG_9617.JPG←土塁と空堀
 網掛館は、歴史不詳の城館である。山林内に遺構が眠っており、館の輪郭は追うことができるが、全体に土塁は低く、空堀も浅くわずかであり、特に北辺はわずかな段差(空堀のみで土塁は無し?)しかない。しかし居館の面積はかなり大きく、土塁・空堀の普請の程度と比べると不釣り合いである。どのような位置付けの館であったのか、判断に迷う城館遺構である。

 お城評価(満点=五つ星):☆☆
 場所:http://maps.gsi.go.jp/#16/36.263670/140.491104/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0t0z0r0f0
タグ:居館
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