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鳥山館(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]
鳥山館は、源頼朝の家臣で、近江源氏佐々木氏の嫡流佐々木定綱の弟高綱の居館と言われている。高綱は、兄達と共に頼朝の挙兵より従って大功を挙げた。その後も、平家討滅の軍に従い、宇治川の戦いで梶原景時の嫡男景季と先陣争いをしたことで知られている。
鳥山館の場所は正確には不明であるが、鳥山町の八幡宮付近と言われている。八幡宮は、比高10m程の丘陵地を控えた地勢に築かれており、中世の居館を置くには好適であったと思われるが、遺構はなく、詳細は不明である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.36.18.2N35.29.55.8&ZM=9
タグ:居館
池辺大丸(神奈川県横浜市都筑区) [古城めぐり(神奈川)]
池辺大丸は、日本城郭全集では池辺城と呼ばれる城である。小田原北条氏の家臣で矢上城を本拠としていた中田加賀守の関連した城とも言われるが定かではない。池辺町の周囲の広い範囲に、大丸・小丸・二の丸・三の丸・中丸等の地名が残っている。ただ、地名の散在する範囲が広すぎ、地形としても丘陵地であるとはいえ、これほどの範囲となると全体としての要害性が低いことから、どうも城ではなさそうに思う。完全に市街化しており、当然遺構は存在しない。城としての存在が不確実であることから、ここでは「池辺城」という城郭の名ではなく、日本城郭大系の記す「池辺大丸」という名称を採用した。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.38.0N35.32.12.5&ZM=9
川和城(神奈川県横浜市都筑区) [古城めぐり(神奈川)]
川和城は、歴史不詳の城郭である。鶴見川の支流谷本川の東岸の丘陵地に位置し、日本城郭大系では谷戸に築かれた居館と一体となった山城ではなかったかと推測している。また川和城は、小机城の西北西4kmに位置しており、小机城の支城であった可能性もある。
川和城は、妙蓮寺の背後の丘陵上にあったと言われている。かつては土塁も残っていたと言われているが、川和団地の開発等の市街化と採土で破壊されている。また丘陵上は妙蓮寺の墓地となり、一部に土盛らしき高台があるが、遺構ではないだろう。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.33.23.0N35.31.19.9&ZM=9
タグ:中世平山城
恩田城(神奈川県横浜市青葉区) [古城めぐり(神奈川)]
恩田城は、恩田堀の内とも呼ばれ、歴史不詳の城館である。福昌寺東側一帯の丘陵地の斜面上にあった城の様で、「あかね台.net」というHPによれば、あかね台が開発される直前の1984~86年に行われた発掘調査で、杉山神社から福昌寺にかけての尾根に空堀が発見されたと言う。これが「新編武蔵国風土記稿」に記載される「から堀」であろう。
恩田城は、現在は完全に宅地化されてしまい、遺構らしいものは地表には存在しない。立地的に足利基氏陣所に似た構造で、一時的な陣城であったものであろうか。現地には今でも堀の内の地名が残っている。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.39.9N35.32.16.9&ZM=9
タグ:中世平山城
長津田陣屋(神奈川県横浜市緑区) [古城めぐり(神奈川)]
長津田陣屋は、徳川家旗本の岡野平兵衛房恒の陣屋である。岡野氏は、執権北条氏の流れを汲むと言われ、最後の得宗北条高時の遺児北条時行の末流とされている。伊豆田方郡狩野庄田中を領し、泰行の代に田中氏を称した。戦国時代になると小田原北条氏に仕え、田中融成は北条氏政の命で板部岡氏を継いだ。後に剃髪して江雪と号した。板部岡江雪は、北条家中に於いて主に外交を担当した重臣で、岩槻城主北条源五郎の死後、岩槻城を守った。また、北条氏政・氏直が出陣する際は、必ず江雪を留めて小田原城を守らせたと言われる程の信任を受けた。戦国末期、織田信長の天下一統の覇業を継いだ豊臣秀吉と北条氏との関係が緊迫してくると、江雪は上洛して秀吉に謁し、和睦の交渉に当たった。その甲斐虚しく1590年に小田原の役となり、北条氏が滅びると、秀吉は江雪の才を惜しんで家臣とした。この時、秀吉の命で岡野に改称した。秀吉の死後は徳川家康に仕え、関ヶ原合戦の際、小早川秀秋の内応交渉に当たって功を挙げた。江雪の子が房恒で、房恒もまた岩槻城主北条氏房に仕え、小田原の役の際は、小田原城に入った主君氏房に代わって、岩槻城の新曲輪に籠って奮戦した。北条氏滅亡後は関東に入部した徳川家康に仕え、長津田を賜り陣屋を構えた。以後、徳川家の旗本となって幕末まで存続した。
長津田陣屋は、現在の長津田幼稚園付近にあったと言われている。市街化で遺構はないが、背後に丘陵地を控えた地勢で、周囲には岡野氏縁の寺社が点在している。特に江雪の菩提を弔うために建立された大林寺には、岡野家の歴代墓所があり、そこの石碑にその由緒が刻まれている。私はそれを読んで、初めて岡野氏が北条得宗家の末裔だと知った。遺構はなくても、重要な歴史を秘めた場所である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.29.56.4N35.31.28.9&ZM=9
タグ:陣屋
新田義貞鎌倉進撃路(神奈川県大和市) [その他の史跡巡り]
大和市と横浜市と町田市の境界近くにある観音寺前交差点を西にちょっと入ったところに大山阿夫利神社御分霊社がある。その前の道路脇には、「新田義貞公鎌倉進撃路」の石碑が建っている。
解説の石碑にこうある。
「元新田氏の歴史と其の由来
南朝之忠臣元新田氏の髙下宗家は相州下鶴間村の由緒ある旧家であった。元弘三年(西暦1333年)鎌倉攻めを行った新田義貞公の流れを汲む当地の豪族であった。現在の観音寺より歴史は古く、観音寺は当家の先祖が土地を寄進し開基したと当家に伝えられている。又、寺住職墓地とされている処は当家の先祖である新田氏の墓地であり、その墓主である髙下半左衛門に登記済である。その墓地に正慶元年、建武五年、延文二年の三基の板碑があった。これは新田公が鎌倉攻めの時、戦死を遂げた武士たちの墓にあった供養碑である。建武五年、延文二年の二基については新編相模国風土記稿に見えるものである。(以下略)」
先の御分霊社は、ここにも書かれている髙下家の敷地内にあり、道路脇に建っている進撃路の石碑や解説の石碑、義貞の上野挙兵から鎌倉までの進軍路の地図など、全て髙下家が自邸の敷地の内外に自腹で建てているらしい。新田氏の裔を誇る旧家らしい太っ腹で、敷地を惜しげもなく一般開放しており素晴らしい。どのような由来があって新田氏の一族がこの地に居を構えたのか、非常に興味を引くところであるが、ここでは石碑の解説文の一部を記載するに留めておく。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.28.9.0N35.29.53.1&ZM=9
四万坂古戦場(神奈川県大和市) [その他の史跡巡り]
四万坂古戦場は、深見城の南方800m程の位置にある古戦場である。長尾景春の乱の際に、乱の鎮定に当たった扇谷上杉氏の家宰太田道灌と景春方の深見城の軍勢(山田伊賀守と言われる)が戦った古戦場と伝えられている。この地を通る古道で戦った両軍は合わせて四万の軍勢であった為、四万坂と称されるようになったと言う。
四万坂古戦場は、境川の西岸に位置する段丘部の坂道に解説板がある。ここから境川をちょっと遡れば深見城があり、この地が深見城の最終防衛線であったと思われる。
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.28.19.4N35.28.56.6&ZM=9
タグ:古戦場
亀之甲山陣城(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]
亀之甲山陣城は、長尾景春の乱の際に、太田道灌が小机城攻めの為に築いた陣城である。景春の父、長尾景信は山内上杉氏の家宰であったが、その死後の1473年6月、家宰職は景信の弟・忠景に与えられた。これは山内上杉氏当主の顕定が、長尾氏の勢力増長を恐れてのこととも言われている。景春はこれを不服として、主家上杉氏に反発、3年後の1476年に鉢形城を築いて立て籠もり、 反旗を翻した。これが長尾景春の乱である。景春は関東各地の有力豪族を味方に誘い込み、大規模な反乱となった。武蔵の豪族豊島氏も景春方に付き、石神井城・練馬城・平塚城等に立て籠った。この時、山内上杉氏を輔翼する扇谷上杉氏はその家宰、太田道灌を派して乱の鎮圧に当たらせた。戦術に巧みな道灌は関東を転戦し、1477年、豊島泰経の拠る石神井城を落とし、泰経が敗走して籠った平塚城をも攻め落とした。泰経は更に景春方の矢野兵庫助らが立て籠もっていた小机城に逃れて抗戦を続けた。道灌は小机城を攻囲するに当たって、亀之甲山陣城を築いて本陣とした。そして2ヶ月の攻囲戦の末に小机城を落城させた。
亀之甲山陣城は、小机城の北東1.4km程の高台に位置している。鶴見川北岸の丘陵の先端に当たり、鶴見川を天然の外堀とし、眺望にも優れ、小机城の動きを見張るのに絶好の陣場である。現在城跡は新横浜テクノヒルズ企業団地という工場団地となっており、遺構は湮滅している。しかし地勢は残っており、今でもこの地からは小机城がよく望見できる。折しも夕暮れ時に訪城したため、夕空に浮かぶ富士山をバックに小机城が見え、美しい光景だった。道灌もこの景色を見ていたのかと思うと感慨深かった。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.36.42.0N35.30.50.1&ZM=9
大曽根城(神奈川県横浜市港北区) [古城めぐり(神奈川)]
大曽根城は、大曽根砦とも呼ばれ、小田原北条氏の重臣笠原氏が築いたと言われる城である。笠原越前守信為は、北条氏の始祖伊勢宗瑞の古参家臣で小机城主となった。そして信為の庶子と言われる平六義為が、小机城の支城として大曽根村に砦を築き、小机出張城と唱えたと「新編武蔵国風土記稿」に記載されていると言う。その後の歴史は不明である。
大曽根城は、「字殿谷の上の丘陵」にあるとされるが、地図上は地名が残っておらず場所がよくわからない。しかし大曽根地区は、鶴見川が北から東へ大きく蛇行する位置にあり、要害としての地勢を残している。地勢上は太尾見晴らしの丘公園付近が最も城砦を築くのに好適と思われるが、眺望には優れ、鶴見川を天然の外堀とはしているものの、なだらかな丘陵地で城塞としての要害性にはやや心許ない。とりあえず地図には、この公園の場所をリンクしておく。尚、近くの龍松院は小机城2代目城主笠原能登守康勝が開基の寺である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.37.31.6N35.31.45.2&ZM=9
安達義景別荘〔付、鶴見原古戦場〕(神奈川県横浜市鶴見区) [古城めぐり(神奈川)]
安達義景別荘は、鶴見別荘とも呼ばれ、安達藤九郎右衛門尉景盛の子秋田城介義景の別邸であった。吾妻鑑には、1241年に将軍藤原(九条)頼経が武蔵野開発の方違の為に安達義景の鶴見別荘に出掛けたことが記載されていると言う。
安達義景別荘の所在地は明確ではないが、鶴見区北寺尾に別所の地名が残っており、この地の丘陵上にある熊野神社の付近ではないかと推測される。谷戸地形に面した丘陵地であるが、一面の住宅地で遺構は残っていない。
尚、この地は交通の要衝であったため、南北朝期に2度の合戦の舞台となっている(鶴見合戦)。一度目は、1333年5月。上野で挙兵した新田義貞は、鎌倉街道を一路南下し、関東諸豪を糾合しつつ鎌倉に迫った。これに呼応して、下総有数の豪族千葉貞胤が鎌倉目指して進軍し、これを迎え撃った幕将金沢貞将と鶴見の地で合戦となった。貞将は惜敗し、鎌倉に退き引いた。二度目は、1335年の中先代の乱の時である。建武の新政が開始された後、北条方残党は得宗北条高時の遺児北条時行を奉じて関東で大規模な叛乱を起こした。その経緯は井出の沢古戦場の項に記載する。鎌倉府を預かる執権足利直義(尊氏の弟)は軍勢を差し向け、鎌倉目指して南下する北条方の別働隊と、迎え撃つ鎌倉側の佐竹一族が鶴見付近で合戦となった。この戦いで佐竹貞義の5男義直が討死にしたと言う。現在の一面の住宅地からは、古戦場であったことなど想像もつかない変わり様である。
お城評価(満点=五つ星):☆
場所:http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.39.55.8N35.30.43.3&ZM=9
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